リア王・院政・権力論

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リア王に学ぶ権力論

シェイクスピア

 シェイクスピアの四大悲劇に『リア王』がある。演劇の台本を文学作品として読むことは「レーゼドラマ」と呼ぶそうで、『リア王』はそのレーゼドラマとしても面白い。今日はちょっと趣を変えて、『リア王』自体ではなく、そこから読み取れる権力論をあれこれ考えてみたい。

 リア王の悲劇は、王権をむざむざと娘たちに与えたことがその始まりだ。本人は退位しても以前と変わらぬ生活が続くと考えていた節があるけれど、そうは問屋が卸さぬならい、権力を手にした娘たちによって精神的に追い詰められ、荒野をさまようことになる。付き従うのは道化ただ一人だ。勘当した末娘が嫁ぎ先の軍勢を連れて助けにくるも、色々あって娘たちは全員死亡。哀れリア王も悲しみに打ちのめされて没する。

 リア王は退位した時点で考えを改めねばならなかった。王でなくなった以上、自分の命令なり行動なりが、今までと違って一段上の権力により制限されるということを知る必要があった。それを踏まえず王のように振舞ったんで、悲劇が起きた。

 しかし、冷静に考えるとこの悲劇にはおかしな点がある。まるで、権力が王という位の機能であるかのように扱われているところだ。王であろうとなかろうと、リアはリアだ。道化に言わせれば、少なくともリアの影法師だ。人が変わった訳じゃない。娘たちにとって、リアが父であることにも変わりはない。仮に権力が王の位の機能なら、王位に就いた者は誰もが権力を持つだろうけれど、王でありながら権力を失い簒奪の憂き目に見舞われた者は数多くいる。以前に触れたリチャード二世がその好例だ。

 

 

権力を奪われている故に廃位の危機は間近だと考え、絶望的な挙兵の果てに弑逆された曹髦も、大きなくくりで言えば同様だろう。つまり、権力の源は王という位ではない。

 

 

 では、王位が権力の源でないならば、何がそうなのか。韓非子、マキャベリだとかマックス・ウェーバーだとかを引き合いに出すまでもなく、暴力と富だ。意のままに操れる武力(暴力)と、人を従わせるのに十分な富を手にしていれば、権力が手に入れられる。で、リア王は退位と同時にそれらを手放した。そして、悲劇の主人公となった訳だ。ちょっと話は脱線して、暴力と富以外にも、権力の元となるものがある。人々の支持だ。いわゆる革命や内乱の始まりにおいては、その指導者と目される人物が暴力と富を欠いていても、一定領域や特定の集団内において権力を握るケースはある。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」の陳勝しかり。ヴァンデ戦争におけるジャック・カトリノーしかり。まあ、事態の推移とともにそういう人物も自前の暴力と富を手にしていくのがほとんどだが。個人的には、暴力・富・人々の支持という三位一体が、権力の基だと考える。

院政に見る権力論

 話をリア王に戻すと、リアは自分の権力が何に依っているか知らずにいたから転落した。劇中でリアの娘の一人が、リア配下の騎士たちがいかに無礼か非難している。してみると、王を退いてなお、リアには自前の武力(暴力)があったようだ。ただ、それがリアの役に立っていないところを見ると、大したものでなかったらしい。

 で、ここから院政の話になる。それは白河上皇より始まった。院政というのは、天皇に代わって上皇(退位した元天皇)が政治を行う仕組みの呼称だ。白河院、すなわち白河上皇の院政は、自身が譲位することで幼い我が子を天皇位に就けよう、という思惑を出発点としている。当初、退いてなお権力を握るという面はそれほど色濃くなかった。ところが、我が子であり、末代の賢王とまで謳われた堀河天皇が若くして崩御し、その子、つまり自分にとっては孫に当たる鳥羽天皇を助ける必要が生じた頃から事情が変わる。祖父と孫の関係は、親子の関係より薄い。天皇に非ざる身で天下を治めるための権力が、欠くべからざるものとなったのだ。やがて、白河院は暴力を手に入れる。それが北面の武士だ。また、富も手に入れる。それが院への寄進荘園であり、知行国の制度だ。白河院に従えば富貴栄達が望めるという欲望に駆られ、中小貴族や軍事貴族が彼を支持する。かくして、いわゆる「治天の君」による院政が強大な権力となって確立する。自前の暴力(戦力)をほとんど持たず、国富の一部を治天の君に横領されたような状態だった院政下の天皇は、まさに有名無実の存在となる。

 もしリア王が退位しても己を変えず、なおかつ悲劇を回避せんとするならば、まさに院政のように、自前の暴力と富を手にしたままでいる他なかっただろう。特に意識した訳じゃないけれど、今回はおふざけなしで、思うところを書いてみた。

 

 

 

 

 

 

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