『晋書』 王敦伝そのⅠ

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晋書の現代語訳

 昔から、やろうと思っては色々と理由を付け、先延ばしにしていたことがある。それを、何の拍子かやる気が湧いて、今さらなが取り組もうと決意するに至った。どんな活動かというと、晋書王敦伝の現代語訳だ。正直、どれほど日数がかかるか見当もつかない。ほぼ間違いなく、年単位の時間を費やすだろう。それでも、粘り強く、折に触れてここで発表していきたい。底本には中華書局の『晋書』(1974 北京)を用い、訓読については一部で汲古書院の『和刻本正史 晋書』(1971 東京)を参考にした。ちなみに、この記事は八王の乱・永嘉の乱・東晋の建国・王敦の反乱を予備知識として有する方を念頭に置いて書いている。何じゃそれっていう読者には申し訳ないが、ご了承下されば幸いだ。東晋建国の功臣にして逆賊、名門の生まれにして田舎貴人たる王敦について、少しでも興味を持つ人が出てくるとありがたい限り。

 余談だけれど、書き下し文にはわざと「は」や「の」を加え、断定の助動詞と係助詞を適当に補っている。文章を読みやすく、見やすくするための措置とお考え下さいな。原文は機会があれば載せるかもしれないけれど、まあ、当てになさらないで欲しい。

<書き下し文>

 王敦字(あざな)は処仲、司徒導の従父兄なり。父の基は、治書侍御史なり。敦は小(わか)くして奇人の目有り、武帝の女の襄城公主を尚(めと)り、駙馬都尉を拝し、太子舎人に除せらる。時に王愷・石崇は豪侈を以て相(あい)尚(たか)め、愷嘗て酒を置き、敦と導と倶に座に在り、女伎の笛を吹きて少しく声韵を失する有れば、愷便ち之を殴殺す。一座の容を改むるも、敦は神色自若たり。他日、又愷に造(いた)り、愷美人をして酒を行わしめ、客の飲を尽くさざるを以て輒ち之を殺す。酒の敦・導が所に至り、敦故(ことさら)に肯えて持せず、美人悲懼して色を失うも、敦慠然として視ず。導素より飲むこと能わざるも、酒を行う者の罪を得るを恐れ、遂に勉強して觴を尽くす。導還り、歎じて曰く、
「処仲若(も)し世に当たらば、心に剛忍を懐き、令終に非ず。」
と。洗馬の潘滔は敦を見て之を目して曰く、
「処仲の蜂目は已に露わるも、豺声は未だ振るわず、若し人を噬(か)まざれば、亦当に人の噬む所と為るべし。」
と。太子の許昌に遷るに及び、東宮官属に詔して送るを得ざらしむ。敦及び洗馬の江統・潘滔、舎人の杜蕤・魯瑶等は、禁を冒して路側に望拝流涕し、時論之を称す。給事黄門侍郎に遷る。

 趙王倫は位を纂(つ)ぎ、敦が叔父の彦は兗州刺史なれば、倫は敦をして之を慰労せしむ。会(たまたま)諸王の義兵を起こし、彦は斉王冏が檄を被るも、倫の兵強きを懼れ敢えて命に応じざるに、敦は彦に兵を起こして諸王に応ずるを勧め、故に彦は遂に勲績を立つ。恵帝反正し、敦は散騎常侍・左衛将軍・大鴻臚・侍中に遷り、出でて広武将軍・青州刺史に除せらる。

 永嘉の初め、徴せられて中書監と為る。時に天下大乱、敦悉く公主の時の侍婢百余人を以て将士に配給し、金銀宝物は之を衆に散じ、単車にて洛に還る。東海王越の栄陽より来朝するに、敦は親しむ所に謂いて曰く、
「今威権は悉く太傅に在り、而れども選用表請、尚書は猶旧制を以て之を裁き、太傅は今至る。必ず誅罰有らん。」
と。俄かにして越は中書令の繆播等十余人を收めて之を殺す。越の敦を以て揚州刺史と為すに、潘滔は越に説きて曰く、
「今処仲を江外に樹(た)て、其の豪強の心を肆(ほしいまま)にせしめば、是賊せらるるなり。」
と。越従わず。

 其の後尚書を徴拝して就かず。元帝召して安東軍諮祭酒と為す。会(たまたま)揚州刺史の劉陶卒し、帝復た敦を以て揚州刺史と為し、広武将軍を加う。尋(つ)いで左将軍・都督征討諸軍事・假節に進む。帝の初めて江東を鎮するも、威名未だ著れず、敦と従弟の導等と同心翼戴し、以て中興を隆し、時人は之が為に語りて曰く、
「王と馬と天下を共にす。」
と。尋いで甘卓等と江州刺史の華軼を討ち、之を斬る。

<現代語訳>

 王敦は字を処仲と言い、司徒の王導にとっては年上の従兄弟だった。王敦の父である王基は、生前に治書侍御史の役職に就いていた。王敦は若い頃から珍しい目をしていて、武帝の娘である襄城公主を娶ると駙馬都尉を拝し、その後は太子舎人に任命された。当時は王愷・石崇が贅沢を競っていた。王愷が宴会を開いた時、王敦と王導はその席にいた。王愷の家の女楽人が、笛を吹いた際に少しばかり音程を外した。すると王愷はすぐさまその女楽人を撲殺した。宴会の席にいた者は表情を変えたが、王敦は普段と変わらぬ表情のままだった。別の日に、王敦と王導はまた王愷の宴会に出席した。王愷は美人の使用人たちに酒を注がせ、客が酒を飲み干さないとその度に美人を殺した。酒が王敦と王導の所に来ると、王敦はわざと酒を飲もうとしなかった。酒を注いでいた美人は悲しみ恐れて顔色を失ったけれども、敦は慠然としてその美人に目もくれなかった。王導は元々酒が飲めなかったものの、酒を注ぐ者が罰として殺されるのを恐れ、結局は無理して酒を飲み干した。王導は帰宅すると溜め息をついて、
「もしも処仲が世の中に出ても、心には剛直さと残忍さを抱いているから天寿を全うしないだろう」
と言った。太子洗馬だった潘滔は王敦を見て、
「処仲の蜂のように攻撃的な目は既に露わであるけれど、他人に危害を及ぼす豺のような声はまだ奮っていない。もしも他人を害さなければ、きっと他人に害されるだろう」
と評価した。皇太子が廃嫡されて許昌に追放されることとなると、皇帝は皇太子の部下に詔して見送ることを禁じた。王敦及び太子洗馬の江統や潘滔、太子舎人の杜蕤や魯瑶といった皇太子の部下は、禁令を冒して道端で皇太子の姿を望んで礼拝し、涙を流した。当時の世論はこれを称賛した。その後、王敦は給事黄門侍郎に異動した。

 趙王の司馬倫が恵帝を廃位し、皇帝に即位した。当時、王敦の叔父である王彦は兗州の刺史だったので、司馬倫は王敦を派遣して王彦を慰労させた。諸王が義兵を起こして司馬倫を討とうとした際、王彦は斉王の司馬冏から檄文を受け取っていた。王彦は司馬倫の兵が強いことを恐れ、決してその檄文に応じようとはしなかった。しかし、王敦が兵を起こして諸王に応ずるように勧めると、王彦はそれに従った。そのおかげで、王彦は遂に功績を立てることとなった。恵帝が皇帝に返り咲くと、王敦は散騎常侍・左衛将軍・大鴻臚・侍中に異動し、その後は地方に出て広武将軍・青州刺史に任命された。

永嘉の初め頃、王敦は中央に召還されて中書監となった。時に天下は大いに乱れていたので、王敦は妻の公主の侍女や婢たち百人以上を将士に与え、金銀宝物は人々にばら撒き、馬車一台だけで洛陽に帰還した。東海王の司馬越が栄陽から来朝すると、王敦は親しい者に向かって、
「今、権威も権力も太傅の司馬越がことごとく握っている。それなのに、官吏の選用や皇帝への報告は尚書がまだ旧制を根拠に裁決している。太傅が今やって来たからには、必ず誅殺される者がいるだろう」
と言った。司馬越は突如として中書令の繆播たち十余人を拘束し、殺してしまった。司馬越は王敦を揚州の刺史に任命しようとした。潘滔は司馬越を説得しようとして、
「今、処仲に長江の向こう側での権力を与え、その豪強の心をほしいままにさせたならば、あなたは危害を加えられますよ。」
と言った。しかし、司馬越はその忠告に従わなかった。

 その後、王敦は尚書に任命されたが就任しなかった。元帝は王敦を召して自分の配下とし、安東軍諮祭酒に任命した。揚州の刺史だった劉陶が死んだ際、元帝は王敦を再び揚州の刺史とし、広武将軍の位を追加した。次いで、王敦は左将軍・都督征討諸軍事・假節に昇進した。元帝が初めて江東に出鎮した頃、その威名はまだ明らかでなかった。そんな中で王敦やその従兄弟の王導は元帝に同心翼戴し、中興を盛んにした。そこで当時の人々は、
「王と馬と天下を共にす」
と言った。次いで王敦は甘卓たちと江州の刺史だった華軼を討ち、これを斬った。

 

 

 

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