『晋書』 王敦伝そのⅡ

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今のところは建国の功臣だが

 永嘉の乱によって乱れる中原を去り、司馬睿(東晋の元帝)の招聘に応じた王敦は、強大な軍権をその手に握って西方で戦うこととなる。例によって意訳上等、書き下し文の助詞や断定の助動詞は読みやすさ優先で付けている。

<書き下し文>

 蜀賊たる杜弢の乱を作(な)し、荊州刺史の周顗の退走するに、敦は武昌太守の陶侃・予章太守の周訪等をして弢を討たしめ、敦は予章に住み、諸軍の継援を為す。侃の弢を破るに及び、敦は侃を上して荊州刺史と為す。既にして侃は弢が将なる杜曾の敗(やぶ)る所と為れば、敦は処分するに失う所を以て、自ら貶めて広武将軍と為るも、帝許さず。侃の弢を滅すれば、敦は元帥を以て鎮東大将軍・開府儀同三司に進み、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史を加え、漢安侯に封ぜらるる。敦始めて自ら選置し、州郡を兼統す。頃之(しばら)くして、杜弢が将たりし杜弘は南のかた広州に走り、桂林の賊を討ちて自效を求め、敦は之を許す。陶侃の弘を距てて進むを得ざれば、乃ち零陵太守の尹奉に降り、奉は弘を送りて敦に与えれば、敦は以て将と為し、遂に寵待せらるる。南康の人たる何欽が居る所は嶮固にして数千人を聚党すれば、敦は就きて四品将軍を加え、是に於いて専擅の迹漸く彰(あきら)かなり。

 建武の初め、又征南大将軍に遷り、開府故(もと)のごとし。中興建ち、侍中・大将軍・江州牧を拝す。部将の朱軌・趙誘をして杜曾を伐たしむるも、曾の殺す所と為り、敦自ら貶め、侍中を免じ、并せて牧を辞して拝せず。尋いで荊州牧を加えらるれば、敦の上疏して曰く、
「昔漢の高祖は神武を以て命を革(あらた)め、帝業を開建し、継ぐに文帝の賢を以て洪緒を纂承し、清虚玄黙、跡を成康に擬す。賈誼嘆息し、以て天下倒懸すと為すは、言に抑揚有りと雖も、事体を失わず。今聖朝肇(はじ)めて建ち、漸く宏綱を振るうも、往(さき)に段匹磾は使を遣わして忠節を效さんことを求めたれば、尚未だ労有らざるに便ち方州を以て之に与う。今靳明等は国が為に恥を雪(そそ)ぎ、大逆を除かんと欲すれど、此の志望、皆翼に附して天飛せんと欲すればなり。功大にして宜しく報いるべしと雖も、亦宜しく之を裁つこと有るべく、当に漸を杜(ふさ)ぎて萌を防ぐに、之を慎みて始在るべし。中間不逞ならば、互いに事変を生じ、皆忠義に非ざれば、率いるに一朝の栄を以てせん。天下の漸弊、実に此れに由る。春秋の時、天子は微弱にして、諸侯は奢侈たるも、晋文の周室を思崇して、隧を求むるの請有るに至り、襄王之に譲るに礼を以てすれば、義を聞きて服す。爾(これ)より諸侯敢えて度を越す莫し。臣謂(おも)えらく前者(さき)に賊寇の未だ殄ぜざるに、苟(いやし)くも済を以て事(つか)えれば、朝廷が諸(もろもろ)の加授する所、頗る爵位兼重を多くすと。今臣より以下、宜しく皆之を除き、且に群小の功を矜るの望、夷狄の懕(あ)く無きの心を塞がんとすべし。若(も)し復た遷延して、流俗を顧望せば、姦狡をして心に生ぜしめ、遂に相(あい)怨謗して、朝廷を指擿し、讒諛は蜂起し、臣以(おも)えらく陛下の以て之を正す無きを知ること有らんと。此れ安危の機、天下の望なり。
 臣の門戸は特に栄任を受け、権重を備兼し、渥恩は偏隆して、寵は公族に過ぎたり。行路厮賤も猶不可なるを謂い、臣独り何の心ぞ以て之を安んずべきかと。臣が一宗の陛下を誤(あやま)たば、傾覆亦将に尋いで至らんとす。復た身を灰にして心を剖くと雖も、陛下追悔して将た何の及ぶ所ぞ。伏して願わくば臣の至款を諒し、今の際会に及びて少しく之を解散し、並びに賢儁に授け、少しく有識を慰め、各(おのおの)其の懐く所を尽くすを得て、則ち人に競勧を思わしめよ。州牧の号、敢えて当たらざる所なれば、輒ち仮す所の侍中貂蝉を送る。又宜しく官を并せ職を省き、以て群小の覬覦の望を塞ぐべし。」
と。帝優詔して許さず。又州牧を辞し、聴ぜられて刺史と為る。

<現代語訳>

 蜀から流れ込んできた賊徒である杜弢が反乱を起こし、荊州刺史の周顗が敗走したため、王敦は武昌太守の陶侃や予章太守の周訪等に杜弢を討たせ、自身は予章に駐屯してそれら諸軍の後援となった。陶侃が杜弢を破るに及び、敦は上奏して陶侃を荊州刺史にした。その後、陶侃が杜弢の将軍である杜曾によって破られると、王敦は監督責任を理由に降格を申し出て広武将軍となったものの、元帝はそれを認めずに慰留した。陶侃が杜弢の勢力を壊滅させると、王敦はこの方面の元帥だったことから鎮東大将軍・開府儀同三司に昇進し、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史の地位を加えられ、漢安侯に封ぜられた。こうして、王敦は幕僚を招聘する権利が認められ、さらに州郡を統括することとなった。しばらくして、杜弢の将軍であった杜弘が南方の広州に逃げ、桂林の反乱軍を討つ功績と引き換えに赦免されることを求めると、王敦はそれを許可した。陶侃が妨害して杜弘は先に進めなくなったので、零陵太守の尹奉に降伏を申し出たところ、尹奉は王敦の元へ杜弘を送りつけた。王敦は杜弘を将軍に任命し、結局杜弘は王敦に重用されることになった。南康の人である何欽は堅固な地形に割拠して数千人を集めていたため、王敦は何欽に四品将軍の称号を与えた。こうして、王敦の独断専行ぶりが次第に明らかになっていった。

 建武年間の初頭に、王敦は征南大将軍に転任した。幕僚を引き連れる権利は以前どおり認められた。東晋が建国されて元帝が即位すると、王敦は侍中・大将軍・江州牧に任命された。配下の部将である朱軌や趙誘に杜曾を討伐させたが、二人が杜曾に殺されたため、王敦は降格を申し出て、侍中と江州牧を辞任した。その後、朝廷から荊州牧の地位を追加されると、敦は上疏して、
「昔、漢の高祖(劉邦)は神武を以て天命を改め、帝業を開建しました。それから文帝が賢明さによって皇帝の位を継ぎ、その事績は汚れなく奥深い静けさを備え、周王朝の成王や康王になぞらえられました。ただ、賈誼が文帝の政治に嘆息し、天下が逆さ吊りの困難に直面していると考えたのは、その言葉に毀誉褒貶があるとはいえ、事態を見失ってはいません。今、聖朝は建国されて間もなく、その威光は振るいはじめたばかりですのに、以前に段匹磾が使者を派遣して朝廷に忠誠を尽くすと伝えましたところ、まだそれに見合った功績がない内から州を統治する地位を与えられました。現在、靳明たちは国の為に恥を雪ぎ、大逆を除こうとしていますけれど、これらの望みは皆、翼に附して天に飛ぶように栄達したいという考えからのものです。功績が大きければ報いるのはいいでしょうけれど、同時にそれらを適切に裁くのが望ましいですし、当然ながら悪い兆しを未然に塞ぎ防ぐため、慎み深い人事が最初にあるべきです。もしも中間の立場の者が好き勝手に振舞うならば、それぞれ互いに事変を起こします。そうした者は全く忠義の士ではありませんから、統率するのに栄誉を与える必要があるでしょう。天下が次第に疲弊するのは、本当にこれが原因です。春秋時代は天子が微弱で諸侯は奢侈にふけっていましたけれど、晋の文公は周室を崇拝して(わざと)墓に棺を入れるための隧道を作る許可を(分不相応に)求め、周の襄王が礼を根拠にそれを非難すると、義を聞いてその命に従いました。以後、諸侯に度を越す者はいなくなったのです。私が思いますに、以前は朝廷に逆らう賊寇がまだ滅びていない情勢にあっても、もし国を危機から救済するという名目で帰順する者がいたら、朝廷が褒美を与える場合、それは頻繁に爵位をいくつも加える大盤振る舞いとなっていました。今、私をはじめとして、皆の爵位を取り除き、群小の輩が功績を誇ろうとする気持ちや、夷狄の飽くなき欲望を塞ぎましょう。もし再びぐずぐずして世俗の傾向を考慮したならば、人々の心に邪な考えを生じさせます。そうなると結局はお互いを怨み誹り、朝廷の失政を指摘し暴露するようになり、讒言や阿諛追従が蜂のように沸き起こります。そんな事態になれば、私は陛下にこれを正す術のないことを知るようになるでしょう。これは安寧と危機の分かれ目であり、そうならないことが天下の希望です。
 私の一族は特に栄任を受け、強い権力を兼ね備え、朝廷から授かった厚い恩は偏っていて、受ける寵愛は皇族を超えています。道行く人も卑しい者も、やはりこれは良くないと言いますから、どんな心構えによって私だけで批判を抑えられましょうか。我が一族が陛下を誤らせる原因になれば、国が傾き転覆する危機がやってくるでしょう。再び身を灰にして心臓を割くとしても、陛下は後悔してどうしようもなくなります。後生ですから、私のひたむきな気持ちを了承くださり、この際は少しでも私が就く高位を減らし、それを賢くて優秀な人物に授け、少しでも有識者の思いを慰め、各人が思いを実現する機会に恵まれ、競って良い行いを勧めあえるようにしてください。州牧の称号は決して私に妥当な地位ではありませんので、すぐさま侍中の位と貂蝉の飾り物もお返しします。加えて、この際ですから官職を統合して省き、群小がそれを望む気持ちを塞ぐのがいいでしょう。」
と言った。元帝は特別な詔を発したが、王敦の意見は採用しなかった。王敦は荊州牧を辞任し、それは許可されて荊州刺史となった。
 

 

 

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