『晋書』 王敦伝そのⅣ

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遂に反乱(1回目)

 今回も書き下し文に苦戦した。どう考えても文字の脱落があるだろうと、史書に毒づきながらの作業だった。そして、底本の句読にどうしても納得いかない箇所があったから、書き下し文では勝手に句点としたものがある。その部分は色を変えた。ともあれ、東晋建国の功臣である王敦がいよいよ反乱に踏み切った。皇帝権力を強めるために王氏の権力を削ぎたい皇帝側と、王氏の権益を守らんとする王敦のぶつかり合いだ。東晋最初の国難、王敦の乱の始まり始まりぃ。

<書き下し文>

 初め、敦は努めて自ら矯め 厲 (はげ)み、雅(つね)に清談を尚び、口に財色を言わず。既に素より重名有り、又大功を江左に立て、専ら閫外に任じられ、手に強兵を控え、群従貴顕は威権に貮(じ)する莫く、遂に朝廷を専制せんと欲し、問鼎の心有り。帝は畏れて之を悪(にく)み、遂に劉隗・刁協等を引きて以て心膂と為す。敦は益(ますます)平らかなること能わず、是に於いて嫌隙の始めて構ず。酒後の毎に輒ち魏武帝の楽府歌を詠じて曰く、
「老驥櫪に伏すとも、志は千里に在り、烈士暮年、壮心已まず。」
と。如意を以て唾壺を打ちて節を為し、壺辺尽く欠く。湘州刺史たる甘卓の梁州に遷るに及び、敦は従事中郎の陳頒を以て卓に代えんと欲するも、帝従わずして、更(か)うるに譙王承を以て湘州に鎮せしむ。敦復た上表して古今の忠臣の君に疑われ、蒼蠅の人の其の間を交構するを陳べ、以て天子を感動せしめんと欲す。帝愈(いよいよ)忌みて之を憚る。俄かに敦に羽葆鼓吹を加え、従事中郎・掾属・舎人を各(おのおの)二名を増す。帝は劉隗を以て鎮北将軍と為し、戴若思を征西将軍と為し、悉く揚州の奴を発して兵と為し、外に胡を討つを以てし、実に敦を禦(ふせ)ぐ。永昌元年、敦は衆を率いて内向し、隗を誅するを以て名と為し、上疏して曰く、
「劉隗は前に門下に在り、邪佞諂媚にして、忠良を譖毀し、聖聴を疑惑せしめ、遂に権寵に居り、天機を撓乱し、威福の自由なれば、有識は口を杜(と)ざす。大いに事役を起こし、士庶を労擾して、外は義を挙ぐるに託し、内に自ら封植す。奢僭は制を過ぎ、乃ち黄散を以て参軍と為し、晋魏已来、未だ此の比は有らず。帑蔵を傾盡して、以て自ら資奉し、賦役均しからずして、百姓は嗟怨するも、良人の奴を免じ、自ら恵沢と為す。自ら其の大田をして倉廩を充たしむべきに、今便ち割配し、皆隗の軍を充たす。臣は前に諸将の妻息を求め迎え、聖恩の聴許すれど、隗は之を絶ち、三軍の士をして怨憤せざる莫からしむ。又徐州の流人は辛苦して載を経て、家計始めて立つに、隗は悉く駆逼して、以て己の府を実たす。陛下践祚の始めに当たり、王官に刺を投ぜるは、本は非常の慶を以て栄分を予蒙せしむ。而るに更に征役に充て、復た旧名に依り、普く客を取出す従来久遠にして、年載を経渉し、或いは死亡滅絶し、或いは自ら贖い免るるを得、或いは放遺せられ、或いは父兄の時の事の身に及ばずして、得ざる所有らば、輒ち本主を罪す百姓は哀憤し、怨声は路に盈つ。身は北渡せんと欲し、朝廷の遠きを以て名と為し、密かに機要を知り、潜かに険慝を行い、人を進め士を退け、高下は心に任せ、姦狡饕餮なること、未だ隗が比は有らず、無忌・宰嚭・弘恭・石顕と雖も未だ喩(たとえ)と為すに足らず。是を以て遐邇は憤慨し、群后は失望す。
 臣は位を宰輔に備え、国の存亡に与り、誠に平・勃の済時の略に乏しく、然れども自ら駑駘なるを忘れ、社稷を存せんことを志す豈に成敗を座視して以て聖美の虧(か)くるに忍びんや。事は已むを獲ず、今輒ち軍を進め、同じく姦孼を討つ願わくば陛下は深く省察を垂れよ速やかに隗の首を斬らば、則ち衆望の厭服し、皇祚は復た隆(さか)んならん。隗の首の朝に懸からば、諸軍は夕べに退かん。昔太甲は湯の典を遵明すること能わずして、厥(そ)の度を顛覆するも、幸いに伊尹の勲を納れ、殷の道は復た昌(さかん)なり。漢武は雄略なるも、亦江充の讒佞邪説に惑い、乃ち父子相屠るに至り、流血地を丹(あか)くすれど、終いに能く克悟し、大綱を失わず。今日の事、此を逾(こ)ゆこと有り。願わくば陛下深く三思を垂れよ善道を諮詢せば、則ち四海は乂(おさ)まって安く、社稷は永く固からん。」
と。又曰く、
「陛下は昔揚州に鎮し、心を虚ろにして士に下り、賢を優して能に任せ、寛たりて以て衆を得、故に君子は心を尽くし、小人は力を畢(つく)す。臣は闇蔽を以て、徽猷に予奉し、是を以て遐邇は風を望み、有識は自ずから竭し、王業は遂に隆んとなり、惟新は克(よ)く建ち、四海は頸を延べ、咸(ことごと)く太平を望む。
 隗を信じてより已来、刑罰は中(あ)たらず、街談巷議、皆が呉の将に亡ばんとするがごとしと云う。之を聞きて惶惑し、精魂は飛散し、覚えずして胸は臆して摧破し、泣血は横流す。陛下当に祖宗の業を全うし、神器の重を存すべく、臣が前後啓する所を察せよ奈何ぞ忠言を棄忽するか遂に姦佞を信ぜば、誰か心を痛めざらんや。願わくば臣の表を出せ之を朝臣に諮らば、介石の幾、終日を俟たず、諸軍をして早く還らしめ、虚擾に至らず。」
と。
 敦が党にして呉興の人なる沈充は兵を起こし敦に応ず。敦は蕪湖に至り、又上表して刁協を罪状す。帝は大いに怒り、詔を下して曰く、
「王敦は寵霊に憑恃し、敢えて肆(ほしいまま)に狂逆し、方に朕は太甲とならんとし、幽囚せられんと欲す。是忍ぶべくんば、孰れか忍ぶべからずや。今親しく六軍を率い、以て大逆を誅し、敦を殺す者有らば、五千戸侯に封ぜん。」
と。戴若思・劉隗を召して並びに京師に会す。敦の兄の含は時に光禄勲たるも、叛きて敦に奔る。

<現代語訳>

 当初、王敦は努めて自分を抑え、常に清談(世俗を離れた高尚な論談)を尊び、財産や女色について言及しなかった。元々有名だった上に、長江以南で大功を残し、朝廷外での役職に任じられて手中には強兵を保持し、その威信に及ぶ貴顕の者はいなかったので、遂には朝廷を専制し、皇帝の位を狙う心が生まれた。元帝は王敦の強大な力を憎み恐れ、遂に劉隗や刁協たちを引き立てて腹心にした。(王敦の力を削ごうとしたのである。)王敦は益々平静でいられず、こうして元帝と王敦の間に対立が芽生えた。王敦は酒を飲み終えるたび、すぐに魏の武帝の楽府歌を、
「老驥櫪に伏すとも、志は千里に在り。烈士暮年、壮心已まず。」
と詠じた。如意で唾壺を打って節回しとしたから、壺の縁は全て欠けてしまった。湘州刺史だった甘卓が梁州刺史に転任するのに及んで、王敦は従事中郎の陳頒を甘卓に代えようと望んだものの、元帝はそれに従わず、譙王の司馬承を湘州刺史として出鎮させた。王敦は再び上表して、古今の忠臣が君主に疑われ、邪な者がその間を引き裂く様を述べ、天子の心を動かそうとした。しかし、元帝は益々王敦を避けるようになった。(王敦との対立を表面化させない目的で)唐突に、王敦へ羽葆鼓吹の儀礼を加え、その配下の従事中郎・掾属・舎人を各2名増やすことが決まった。元帝は劉隗を鎮北将軍とし、戴若思を征西将軍とし、揚州の奴隷を全て徴発して兵とし、表向きには(北方の)胡を討つと称し、実際には王敦を防ごうとした。永昌元年、王敦は配下の軍勢を率い、劉隗を誅するという名目で都に向かった。そして、上疏して、
「劉隗は以前、権力の枢要にいました。邪悪かつ媚びへつらう性格で、忠良の臣を貶め、陛下のご判断を迷わせ、遂に恩寵と権力を占める位に就き、天下の政治を乱し、賞罰を自由自在にしました。そのため、有識者は口を閉ざすこととなりました。大いに労役を課して士人や庶民を疲弊させ、表向きは(北方の異民族から国土を奪還するという)義挙のためと唱え、内実では自らの権力強化に走りました。奢侈は度が過ぎ、黄門侍郎や散騎常侍(といった宮廷内の役職にある者)を自分の配下である参軍としたことなど、晋や魏が成立して以来、未だこれに比べられる(暴挙とも言うべき)行為はありません。国庫を傾けて空にし、自分のために用い、民衆への賦役は不平等で人々は怨嗟したものの、良民の奴隷を解放して(兵士とし)、自ら恵み深い政策だと考えました。自分が所有する大規模な田畑の作物で倉庫を満たさねばならないのに、今や国家の資財をそのまま分配し、それを自分の配下の軍に充てました。私は以前、諸将の妻や子供を諸將の元へ迎えようとし、陛下の許可を得ましたけれど、劉隗はこれを止めました。三軍の士に怒りと怨みを抱かない者はいません。加えて、(異民族の支配から逃れてきた)徐州の難民は何年もの苦労を経て、ようやく生計が立てられるようになったばかりだというのに、劉隗はその難民を駆り立てて圧迫し、己の軍府を満たしました。陛下が践祚なさった折、それを支持する者が名刺を差し出したのは、本来ですと非常の慶を理由に栄誉を与えるべき行為です。しかし(劉隗はそうせずに)更に人々を兵役や労役に充て、再び旧来の名目に依り、あまねく難民を徴発し、相当昔から時が経ち、あるいは死亡した者、あるいは自ら罪を贖って刑罰を免れられた者、あるいは家族に遺棄された者、あるいは父兄が罪を犯したけれどそれに連座しない者(さえも対象とし、もしも人員)が集まらなければ、そのまま(解放した奴隷の)本来の主を罰しましたので、人々は悲しみ怒り、怨みの声は道に満ち溢れました。劉隗自身は北に渡ろうとし、朝廷が遠いのを名目とし、密かに国の機密を知ってこっそりと邪悪な行為を働き、一般人を昇進させる一方で士人を退け、官職の上げ下げは心に任せ、狡猾で貪欲なその様は、未だ比べられる者がおらず、費無忌・宰嚭・弘恭・石顕(といった歴史上悪名高い奸臣)であっても未だ譬えとして足りません。こうした理由で近きも遠きも憤慨し、高位高官の者は失望しています。
 私は宰相の位にいて、国の存亡に与り、全く陳平や周勃が(呂氏の乱を鎮めて前漢の)危機を救ったような才略に乏しく、それでも自分が劣っているのを忘れ、社稷を存続させようと志しました。どうして危難を座視して陛下の聖徳が欠けるのに耐えられましょうか。事態はやむをえざる状況まで進み、今こうしてすぐに軍を進め、同時に奸悪を討とうとしております。陛下におかれましては深く省察をお垂れ下さい。速やかに劉隗の首を斬れば、衆望は心服し、皇祚は再び盛んになるでしょう。劉隗の首が朝に晒されれば、諸軍は夕べに退くでしょう。昔、(殷の君主だった)太甲は(王朝の創始者である)湯王の法典を遵守することができなかったために、その支配は覆ってしまったものの、幸いに(太甲を追放して反省を促し、後にその復位を助けて結果的に太甲を救った)伊尹の勲功を容れ、殷は再び栄えました。漢の武帝は雄略だったにもかかわらず、江充の讒言に惑わされ、父子が互いに殺しあう事態に至り、流血は地を赤く染めましたけれど、最後には真実を悟ることができたので、大綱を失わずに済みました。今日の事態はこれらを超えるものがあります。陛下には深く三思をお垂れ下さい。人としての正しい道を(臣下に)諮問すれば、四海は治まって安全になり、社稷は長く強固になるでしょう。」
と述べた。加えてまた、
「陛下は昔揚州に出鎮し、心を虚ろにして士人にへりくだり、賢者を優遇して能力ある者に政治を任せ、寛大だったがために立派な人物は心を尽くしましたし、低い身分の者は力を尽くしました。私は愚鈍の身でありながら、国家の良計に加わり、こういう理由で近きも遠きも(陛下の恵みの)風を望み、有識者は自分から国に尽くし、王業は遂に盛んとなり、惟新は成り立ち、四海は首を伸ばして、ことごとく太平(の到来)を望みました。
 陛下が劉隗を信じなさってから、刑罰は適切でなく、街や巷の会話では、皆が呉の滅亡寸前の(頃と同じ危機的な)状況のようだと口にしています。これを聞いて私は慌て惑い、精神と魂は飛散し、胸は覚えずして恐れ砕け、血の涙が止めどなく流れました。陛下は祖宗の業を全うし、神器(皇帝の位)の重さを存続させねばなりません。臣が前後してお送りした上奏文についてお考え下さい。どうして忠言を捨てて放っておかれるのですか。結局姦佞の者をお信じになるならば、誰が心を痛めないでしょうか。私の上表を公開し、これを朝臣にお諮りくだされば、石のように固く節義を守る兆し(が生じるの)は一日も待たず現れ、諸軍を早期に帰還させ、いたずらな騒動には発展しません。」
と。
 王敦の一味で呉興郡出身の沈充は、(故郷で)兵を起こして王敦に応じた。王敦は蕪湖に至り、更に上表して刁協の罪状について述べた。帝はひどく怒り、詔を下して、
「王敦は恩寵と幸運を恃み、自ら勝手気ままに狂逆した。朕はまさに(臣下によって追放された)太甲となり、幽囚されようとしている。これが耐えられるならば、何が耐えられないだろうか。今こそ自分で六軍を率い、大逆を誅す。王敦を殺す者がいれば、五千戸侯に封じよう。」
と布告した。戴若思や劉隗を召し、都で合流した。敦の兄である王含は、その時に光禄勲だったものの、元帝に叛いて王敦の所に駆け込んだ。

 

 

 

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