『晋書』 王敦伝そのⅤ

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建康を制圧し、思うままに振舞う

 いよいよ王敦が東晋の都である建康を攻める。まあ、題名のごとく、王敦が勝利するんだけどね。建国から幾ばくも経たずして、東晋は滅亡の危機を迎えることとなる。前回がやたらと長かったため、今回の記事は少々短めだ。

<書き下し文>

 敦の石頭に至り、劉隗を攻めんと欲すれば、其の将の杜弘曰く、
「劉隗は死士の衆多く、未だ易く克つべからざれば、石頭を攻むるに如かず。周札は恩少なく、兵は用いられず、之を攻めれば必ず敗(やぶ)らん。札の敗らるれば、則ち隗は自ら走らん。」
と。敦は之に従う。札は果たして城門を開き弘を納む。諸將は敦と戦い、王師は敗績す。既にして石頭に入り、兵を擁して朝せず、兵士を放肆して内外を劫掠す。官省は奔散し、惟だ侍中二人の帝に侍する有るのみ。帝は戎衣を脱ぎ、朝服を著て、顧みて言いて曰く、
「我が処を得んと欲すと、但だ当に早く道(い)うべきのみにして、我自ら琅邪に還らば、何ぞ百姓を困(くる)しむること此のごときに至るや。」
と。敦は周顗・戴若之を収め、之を害す。敦を以て丞相・江州牧と為し、爵を武昌郡公に進め、邑は万戸、太常の荀崧をして就拝せしめ、又羽葆鼓吹を加うるも、並びに偽り譲りて受けず。還りて武昌に屯し、多く忠良を害し、親戚を寵樹して、兄の含を以て衛将軍・都督沔南軍事・領南蛮校尉・荊州刺史、義陽太守の任愔を以て河北諸軍事・南中郎将と為し、敦は又自ら寧・益の二州を督す。

 帝の崩ずるに及び、太寧元年、敦は朝廷の己を徴すと諷(ほの)めかし、明帝は乃ち手づから詔して之を徴し、語は明帝紀に在り。又兼太常の応詹をして、黄鉞を加え、班剣の武賁は二十人、奏事名のらず、入朝趨(はし)らず、剣履きて殿に上るを拝受せしむ。敦は移りて姑孰を鎮し、帝は侍中の阮孚をして牛酒を齎し犒労せしむるも、敦は病と称して見(まみ)えず、主簿をして詔を受けしむ。王導を以て司徒と為し、敦は自ら揚州牧と為る。

<現代語訳>

 王敦が(都のすぐ手前にある)石頭に至って劉隗を攻めようとすると、配下の将である杜弘が、
「劉隗には死を覚悟した士が数多くいて、まだ簡単には勝てませんから、(このまま)石頭を攻める方が得策です。(石頭を守る)周札は皇帝から受けた恩が少なく、兵も朝廷に用いられていなかったので、攻めれば必ず打ち破れるでしょう。そして周札が敗れれば、劉隗は自分から逃げ出すでしょう。」
と言った。王敦はこれに従った。周札は果たして城門を開き、杜弘の軍勢を石頭の城内に引き入れた。諸將は王敦と戦い、朝廷の軍は敗北した。(勝利して)石頭に入ると、王敦は軍勢を擁して参内せず、兵士が都の内外で好き勝手に略奪するのに任せた。朝廷の大臣や役人は逃亡し、ただ侍中が二人、元帝の側に控えているだけだった。帝は戦装束を解いて朝服を着ると、周囲を顧みて、
「(退位して)自分にとってふさわしい場所に居たいと、ただもう早くから言っておくべきだった。私が自分から琅邪へ帰るならば、どうして人々がここまで苦しむ事態に至るだろうか。」
と言った。王敦は周顗と戴若之を捕らえ、殺害した。元帝は王敦を丞相・江州牧に任命し、その爵位は武昌郡公に進めて封土は一万戸とする旨を太常の荀崧に伝えさせ、更に羽葆鼓吹を加えた。しかし、王敦は偽ってどちらも辞退し、受けなかった。王敦は武昌に帰還すると多くの忠臣や良民を殺害した。親族を重用し、兄の王含は衛将軍・都督沔南軍事・領南蛮校尉・荊州刺史に、義陽太守の任愔は河北諸軍事・南中郎将に任命し、更に王敦自身は寧州・益州の二州を監督する立場に就任した。

 元帝が崩御して太寧元年に入ると、王敦は朝廷が自分を呼んでいることを仄めかした。そこで(皇帝位を継いだ)明帝は自ら詔を書き、王敦を召還した。その言葉は明帝紀に書かれている。加えて兼太常の応詹を使者として、(軍事の専断を認める)黄鉞を加え、武装した護衛は二十人とし、上奏文では名乗らずともよい権利、朝廷では小走り(して皇帝に敬意を表す行為を)せずともよい権利、剣を佩いたまま殿に上る権利を王敦に与えた。王敦が軍団と共に移動して姑孰に鎮したので、明帝は侍中の阮孚に牛肉と酒を持たせ王敦を慰労させた。しかし、王敦は病と称して阮孚と会見せず、配下の主簿に詔を受け取らせた。王敦は王導を司徒に任命すると、自身は揚州牧に就任した。

 

 

 

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