『晋書』 王敦伝そのⅥ

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束の間の栄華と病の悪化

 今回の記事も短めだ。なぜなら、この後に詔勅やらお手紙やらが控えているから。出来事を記した部分はまあ、書き下しも比較的スムーズにいく。難渋するのは詔に上奏文、信書の類で、訳してみるものの、それが本当に正しいかどうか分からなくなってくる。ともあれ、絶大な権力を手にしたものの王敦とその配下はろくなことをせず、終いには王敦の病が重くなる。前回見たとおり、王敦は病気と称して明帝の使者に会わなかった。多分、その時ガチで病に倒れたんだと思う。

<書き下し文>

 敦は既に志を得て、暴慢愈(いよいよ)甚だしく、四方貢献は多く己の府に入れ、将相嶽牧は悉く其の門に出づ。含を徙して征東将軍・都督揚州江西諸軍事と為し、従弟の舒を荊州と為し、彬を江州と為し、邃を徐州と為す。含の字は処弘、凶頑剛暴にして時の歯せざる所なるも、敦の貴重を以て、故(もと)より顕位を歴す。敦は沈充・銭鳳を謀主と為し、諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍を爪牙と為す。充等は並びに凶険驕恣にして共に相駆扇し、殺戮は己により、又大いに営府を起こし、人の田宅を侵し、古墓を発掘し、市道を剽掠し、士庶は解体して咸(みな)其の禍敗を知る。敦の従弟たる予章太守の棱は日夜切諫するも、敦は怒り、陰(ひそ)かに之を殺す。敦は子無く、含の子の応を養う。敦の病甚だしきに及び、応を拝して武衛将軍と為して以て自副とす。銭鳳の敦に謂いて曰く、
「脱(も)し其れ不諱せば、便ち当に後事を以て応に付くべきか。」
と。敦曰く、
「非常の事、豈に常人の能くする所ぞ。且つ応は年少(わか)く、安くんぞ大事に当たるべけんや。我が死の後、衆を解き兵を放ち、朝廷に帰身し、門戸を保全するに若(し)くは莫く、此れ計の上なり。退きて武昌に還り兵を収め自ら守り、貢献は廃さず、亦た中計なり。吾の尚ほ存し、衆を悉(つく)して下らば、万一僥倖、計の下なり。」
と。鳳は其の党に謂いて曰く、
「公の下計、乃ち上策なり。」
と。遂に沈充と謀を定め、須らく敦の死後に難を作すべしとす。
 敦は又周札を忌み、之を殺して尽くその族を滅す。常従督の冉曾・公乗雄等は元帝の腹心たれば、敦は又之を害す。宿衛尚ほ多きを以て、奏して三番して二を休ぜしむ。敦の病篤きに及び、詔して侍中の陳晷・散騎常侍の虞𩦎をして疾を問わしむ。時に帝は将に敦を討たんとし、微服して蕪湖に至り、其の営塁を察し、又屢(しばしば)大臣をして其の起居を訊問せしむ。含を驃騎大将軍・開府儀同三司に、含の子の瑜を散騎常侍に遷す。

<現代語訳>

 王敦は志を得ると甚だしく暴虐になって驕り、朝廷への貢ぎ物はその多くを己の幕府に入れ、一族を高位に就けた。王含を転任させて征東将軍・都督揚州江西諸軍事とし、従弟の王舒を荊州刺史とし、王彬を江州刺史とし、王邃を徐州刺史に任じた。王含は字を処弘と言い、凶暴かつ頑なな性格で当時の高官たちとは並び立てない程度の力量だったが、王敦が高貴で重職にいたため、以前から高い地位を歴任していた。王敦は沈充や銭鳳を参謀とし、諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍を配下として用いた。沈充等は全員が凶暴で驕り高ぶり、互いに相手を扇動しては自分勝手に殺戮を行い、また大いに陣地や役所を建設し、他人の田や宅地を奪い、古い墓を発掘し、市道を占拠した。そのため身分の上下なく人心は離れ、誰もが王敦たちの破滅を予見した。王敦の従弟である予章太守の王棱は日夜切実に諫めたものの、王敦は怒って密かに王棱を殺した。王敦には子がいなかったので、王含の子の王応を養子にしていた。王敦の病がひどくなるのに及んで、王応を武衛将軍に任じて自分の後継者にした。銭鳳は王敦に、
「もしあなたが亡くなったら、そのまま王応に後事を託すべきか。」
と訊ねた。王敦は、
「非常の事(晋を滅ぼして新しい王朝を樹立すること)は、どうして普通の人間に実行可能だろうか。加えて王応は若年だ。どうして大事に当たることができようか。我が死後、集めた大衆を解き、兵を解散させ、朝廷に帰順し、門戸を保全するのが一番だ。これが計略の上だ。退いて武昌に戻り、兵を手元に置いて守りを固め、朝廷への貢納は欠かさない(で名目上は朝廷に従ったまま実際には独立を保つ)のが、計略の中だ。私がまだ生きているうちに軍勢を残らず動員して都に攻め下るのは、万に一つの僥倖を期待するもので、計略の下だ。」
と答えた。銭鳳は一味の者たちに、
「公(王敦)の仰る下計こそ、上策である。」
と言った。遂に沈充と共に作戦を立案し、王敦の死後に必ず挙兵すべしと定めた。
 王敦は周札を忌み、周札を殺すとその一族も皆殺しにした。常従督の冉曾や公乗雄はかつて元帝の腹心だったので、王敦はさらにこの二人を殺害した。皇居を守る宿衛がまだ多すぎるという理由で、上奏してその三分の二を休止させた。敦の病が篤くなるのに及び、明帝は詔して侍中の陳晷・散騎常侍の虞𩦎に王敦を見舞わせた。当時、明帝は王敦を討とうとしていた。そこで微服して蕪湖に至り、王敦の陣地を偵察した。加えてしばしば大臣に王敦の動静を探らせた。王含を驃騎大将軍・開府儀同三司に、王含の子の王瑜を散騎常侍に転任させた。

 

 

 

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