『晋書』 王敦伝そのⅦ

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東晋の反撃と反乱(2回目)

 前回から今日に至るまで、記事の完成にひどく時間が掛かった。やっぱり詔勅はキツいね。訳すのが本当に大変だ。今回は疑問を抱えながらの掲載になる。いや、大した話じゃないんだけどさ。前回王敦に殺されたって記述した冉曾と公乗雄なる人物、『晋書』明帝紀を読むと、元帝じゃなくて明帝の腹心っぽいんだよね。どっちなんだろう。あるいは、元帝と明帝の父子に信頼されていたのか。も一つは、謎の右衛将軍の胤だ。多分だけれど、『晋書』庾亮伝に出てくる虞胤かな。名前と将軍号が一致してるんで、そうだと思う。ただ、自信はない。別人かも。ともあれ、いよいよ朝廷側の反撃が始まった。新しい皇帝は、幼い頃から聡明なことで知られる明帝だ。

<書き下し文>

 敦は温嶠を以て丹楊尹と為し、朝廷を覘き伺わしめんと欲す。嶠は至り、具(つぶさ)に敦の逆謀を言う。帝は之を討たんと欲するも、其の物情の畏服する所と為るを知りたれば、乃ち偽りて敦の死を言い、是に於いて詔を下して曰く、
「先帝は聖徳を以て運に応じ、江東に創業し、司徒の導は首(かしら)として心膂に居り、道を以て翼讃す。故大将軍の敦は股肱に参処し、或いは内に或いは外に、夾輔の勲、与(とも)に力有り。階するに際会に縁り、遂に上宰に拠り、節を杖して征を専らにし、五州を以て委ねらる。刁協・劉隗の朝に立ちて允(ゆる)さざれば、敦は義に抗い討を致し、情は鬻拳を希(のぞ)み、兵は順を犯すと雖も、猶乃誠を嘉し、礼秩は優崇され、人臣は貮する無し。事解くの後、城邑を劫略し、兵人を放恣し、侵して宮省に及び、赦信に背違して大臣を誅戮し、縦凶極逆にして朝せずに退く。六合は心に阻(なや)み、人情は憤りを同じくす。先帝は垢(はじ)を含み恥を忍び、容れて責めず、委任すること旧(もと)のごとくして、礼秩加うる有り。朕は不天を以て尋いで酷罰に丁(あ)たり、煢煢として在疚し、哀悼は寄する靡(な)し。而して敦は曾て臣子の遠きを追うの誠無く、輔孤の同(とも)に奨(すす)めるの操無く、甲を繕い兵を聚め、盛夏に来至し、輒ち天官を以て私属に假受し、将に朝廷を威脅するを以て、宗社を傾危せんとす。朕は其の狂戻を愍み、其の覚悟を冀(こいねが)い、故に且(しばら)く隠を含み以て其の終わりを観る。而して敦は其の不義の強を矜り、朝廷を侮弱するの志有り、親を棄て羇を用い、賢に背き悪に任す。銭鳳は豎子にして、専ら謀主と為り、其の凶慝を逞しくし、忠良を誣罔す。周嵩は亮直なるも、讜言は禍を致し、周札・周莚は累世忠義なるも、讒構を聴受せられ、其の宗は残夷せらる。秦人の酷、刑は五を過ぎず。敦の誅戮、無辜を傍濫し、人の族を滅すること、其の罪を知る莫し。天下は心を駭(おどろ)かせ、道路は目を以てす。神は怒り人は怨み、篤疾の嬰(かか)る所、昏荒悖逆にして、日に以て滋(ますます)甚だしく、輒ち兄の息を立てて以て自らの承代とし、多く私党を樹て、同悪に非ざるは莫く、未だ宰相にして体を継ぎ王命に由らざる者の有らざるなり。頑凶は相奨め、顧忌する所無く、擅(ほしいまま)に冶工を録し、輒ち運漕を割き、志は凶醜を聘(と)い、以て神器を闚(うかが)う。社稷の危、夕べに匪ざれば則ち旦なり。天は姦を長ぜず、敦は以て隕斃す。鳳は凶宄を承け、彌(いよいよ)復た逆を煽る。是を忍ぶべくんば、孰れか忍ぶべからざらんや。今司徒の導・鎮南将軍丹楊尹の嶠・建威将軍の趙胤が武旅三万をして十道に並べ進ましめ、平西将軍の邃に兗州刺史の遐・奮武将軍の峻・奮威将軍の瞻が精鋭三万を率いせしめ、水陸は勢を斉(ととの)え、朕は親(みずか)ら六軍を御し、左衛将軍の亮・右衛将軍の胤・護軍将軍の詹・領軍将軍の瞻・中軍将軍の壺・驍騎将軍の艾・驃騎将軍南頓王の宗・鎮軍将軍汝南王の祐・太宰西陽王の羕は被練三千・組甲三万もて諸軍を総統し、鳳の罪を討つ。罪は一人に止め、朕は刑を濫りにせず。能く鳳を殺し首を送るもの有らば、五千戸侯に封じ、布五千匹を賞せん。
 冠軍将軍の鄧嶽は志気平厚にして、邪正を識経し、前将軍の周撫は質性詳簡にして、義誠の素より著(あらわ)れ、功臣の胄なれば、情義は常を兼ね、往年は敦に従い情節の展(の)べず、首領を畏逼し、相違うを得ざるも、其の乃心を論ずれば、王室に貮すること無く、朕は其の誠を嘉(よみ)し、方(まさ)に之に事を以て任せんとす。其の余の文武・諸(もろもろ)の敦の授用する所と為る者、一に問う所無く、刺史二千石は輒ち職する所を離れるを得ず。書の到りて承を奉ぜば、自ら多福を求め、或いは猜嫌して以て誅滅を取ること無かれ。敦の将士は、敦に従い彌年にして、怨曠の日に久しく、或るものは父母の隕没し、或るものは妻子の喪亡せるも、奔赴を得ず、哀を銜(ふく)み、役に従うこと、朕は甚だ之を愍(あわれ)み、悽愴せざるを希(こいねが)う。其の単丁の軍に在りて兼重有ること無き者は、皆家に帰らしめ、終身調ぜず、其の余は皆三年を假することを与え、休の訖(おわ)り台に還らば、当に宿衛と同じく三番を例とせん。詔書を承るを明らかにせば、朕は信に負(そむ)かず。」
と。又詔して曰く、
「敢えて王敦の姓名を捨てて大将軍と称する者は、軍法に従事させん。」
と。
 敦の病は転(うたた)篤く、衆を御すこと能わず、銭鳳・鄧嶽・周撫等をして衆三万を率いて京師に向かわしむ。含の敦に謂いて曰く、
「此れ家の事、吾の便ち当に行くべし。」
と。是に於いて含を以て元帥と為す。鳳等は敦に問いて曰く、
「事の克つの日、天子は云何せん。」
と。敦の曰く、
「尚ほ未だ南郊せず、何を得て天子と称さん。便ち卿の兵勢を盡して、東海王及び裴妃を保護するのみ。」
と。乃ち上疏して温嶠を罪状し、姦臣を誅するを以て名と為す。

<現代語訳>

 王敦は温嶠を丹楊尹(首都の行政長官)に任命し、朝廷の動向を探らせようとした。温嶠は都に至ると、王敦の(新たな)反乱計画を詳細に報告した。明帝は討伐しよう考え、王敦が人々に恐れられているのを知っていたから、偽って王敦が死んだと称し、それから詔を下して、
「先帝は聖徳によって運命に応じ、江東に国を創業し、司徒の王導はその筆頭として腹心の地位におり、道徳でもってそれを翼賛した。亡くなった大将軍の王敦は股肱の臣として政治に加わり、あるいは朝廷内で、あるいは地方で、王導と共に夾輔の勲があった。良い機会に巡り合って高い地位に就き、軍権を手にして朝敵の征伐に専念し、五つの州を任された。刁協や劉隗が朝廷にいて王敦の勝手を許さなかったので、正義に抗って挙兵した。その心は(君主を脅してでも国の安寧を考えた)鬻拳の故事を望んでいて、配下の兵士は平和を乱したものの、それでも先帝は王敦の忠誠心を評価し、礼儀や秩序は尊ばれ、人臣が朝廷に背くことがなかった。しかし騒乱が収まってから、兵士に気ままな略奪を許してその害を宮中や省庁にまで及ぼし、先帝の赦しや信頼に背いて大臣を殺し、極悪非道な振る舞いの後は参内せずに退いた。それに対して天下は心を悩ませ、人々は一様に怒りを覚えた。先帝は恥を忍び、王敦の悪行を容認して責めず、以前と同じように委任し、その待遇をさらに良くした。朕は天祐に恵まれず、それから重い罰(元帝の崩御)に直面し、孤独の身となって先帝の喪に服し、哀悼の意は寄せる所もない。その一方、今日までの王敦には臣下や子孫が祖先の祭祀を厚く行うような誠意もなければ、孤児(明帝)を助けて共に政治を行う節操もなく、甲冑を修繕して兵を集め、盛夏の頃にやって来ると、すぐに朝廷の官職を配下に与え、朝廷を脅かして国家を傾けようとした。朕は王敦の凶暴さを憐み、その非を王敦が悟るのを望み、それ故にしばらくの間は人知れぬ悩みを表に出さず、今後の行き着く先を観察していた。しかし王敦はその不義の強さを誇り、朝廷を侮り見下す心を持ち、親しい者を棄ててよそ者を用い、賢者に背いて悪漢を任用した。銭鳳は豎子でありながら反逆の立案者となり、その凶暴で悪事を行う心を逞しくし、忠良な臣民を誣告した。周嵩は心明るく正しかったものの、道理に合った正しい言葉が身に禍を招き、周札・周莚は代々忠義な者たちだったが、讒言が聞き入れられたために一族皆殺しとなった。秦の残酷さでさえ、連座による死刑は五族を過ぎなかった。王敦の誅罰は無辜の民の命を勝手気ままに弄び、人の一族を滅ぼし、その罪の重さは計り知ることができない。天下は心を驚かせ、道行く人は目配せしている。神は怒り人は怨み、重い病を患ってからというもの、王敦は道理に暗くなって心すさんで国家に逆らう思いが日に日に甚だしくなり、そのまま兄の息子を立てて自分の後継者とした。多くの私党を集めたものの、それらは同じく悪辣でない者がおらず、王敦のように宰相の後任を定める上で王命に依らない者は今までにいなかった。頑なで凶暴な王敦の一味は互いに悪事を煽り、顧みて憚る所がなく、好き勝手に冶金の職人を司ったり、船の輸送を分割したりして、その野心は凶醜な者を招き、王敦は皇帝の位を狙うこととなった。国家の危機は夕方でなければ朝早く(というくらい間近)に迫っていた。しかし天は邪な者を長生きさせないので、王敦は病に倒れて死んだ。銭鳳は王敦の反乱計画を受け継ぎ、再び反逆しようという機運を益々煽っている。もしもこれを耐え忍べるとするならば、何が耐え忍べないだろうか。今や司徒の王導・鎮南将軍で丹楊尹の温嶠・建威将軍の趙胤の指揮する三万の軍を十道に並べて進ませ、平西将軍(征北将軍の誤り。典拠は元帝紀の永昌元年冬十月。そもそも、当時の平西将軍は祖約)の王邃に兗州刺史の劉遐・奮武将軍の蘇峻・奮威将軍の陶瞻の精鋭三万人を率いさせ、水陸は軍容を整えており、朕は自分で六軍を指揮し、左衛将軍の庾亮・右衛将軍の虞胤・護軍将軍の応詹・領軍将軍の紀瞻・中軍将軍の卞壺・驍騎将軍の艾・驃騎将軍で南頓王の司馬宗・鎮軍将軍で汝南王の司馬祐・太宰で西陽王の司馬羕は戦袍をまとった三千の歩兵・鎧を着こんだ三万人の兵で構成された諸軍を統べ、銭鳳の罪を討つ。罪は一人に止め、朕はみだりに刑罰を与えない。銭鳳を殺してその首を送ることができる者がいるならば、その者を五千戸侯に封じ、褒賞として布五千匹を授けよう。
 冠軍将軍の鄧嶽は志や気性が穏やかな上に重厚で、正邪を識別しており、 前将軍の周撫は欠けたところなく行き届いて大らかな気質で、正義の心や誠実さが元から明らかな上、(東晋建国の)功臣(である周訪)の子だから情義は常識を兼ねており、二人とも以前は王敦に従っていたために心情や節義を開放せず、首領である王敦を畏れる一方で状況に迫られて朝廷と袂を分かたざるを得なかったものの、その真心を論ずれば王室に背くところはないので、朕はその誠実さを賞賛し、重要な地位を任せようと考えている。その他の文官や武官で王敦に任用された者は、一切その罪を問わないし、刺史や二千石の官職の者は持ち場から離れてはいけない。もし朝廷の信書が届いて詔を奉ずるならば、自分から幸福を求め、猜疑心にとらわれて誅罰を受ける行動に出てはいけない。王敦の将士は、長年にわたって王敦に付き従わざるを得なかったので恨みを抱いて久しい。ある者は父母を、ある者は妻子を失ったとしても葬儀に赴けず、そうした悲哀を抱えたまま軍役に従っていることに対し、朕はひどく憐みを覚え、これ以上悲惨な状況にならぬよう望む。家にいる働き手の男が一人で代わりもおらず、加えて王敦の軍中において責任ある地位でない者は、皆家に帰らせて終身徴用せず、その他の者には皆三年の休暇を与え、休暇を終えて持ち場に戻っても宿衛と同じく三勤交代を認めよう。もしも詔書を承って反逆者の元から去ったのを明らかにするならば、朕は約束を破らない。」
と言った。また詔を下して、
「あえて王敦を姓名で呼ばずに大将軍という称号を用いる者は、軍法に従って処理するだろう。」
と言った。
 病気がますます悪化して配下を統御できなくなった王敦は、銭鳳・鄧嶽・周撫たちに三万の軍勢を率いさせると、その軍勢を建康に向かわせた。王含は王敦に、
「これは我が家に関する事だから、すぐに私が向かうべきだろう。」
と言った。こうして、王敦は王含を元帥にした。銭鳳たちは王敦に質問して、
「勝利した暁には、天子(明帝)をどうしましょう。」
と言った。王敦は、
「私はまだ南郊(皇帝即位の儀式)をしていないのだから、どんな名分で天子を称せるだろうか。そのままあなた方の兵勢を尽くして、東海王(明帝の弟)及び(東海王の義母で、司馬越の妻だった)裴妃を保護するのみだ。」
と答えた。そして上疏して温嶠の罪を糾弾し、姦臣を誅するという名目で反乱を起こした。

 

 

 

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