『晋書』 王敦伝そのⅨ

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王敦の死と乱の終息

 昔から飽きっぽい性分だった。だから、この王敦伝の現代語訳も、始めた頃はいつ完結するのやらと思っていた。それがどうだ。完成間近と相成った。書いてはほったらかしにしての繰り返しで何年もかかると踏んでいたから、うれしい誤算というところ。残るは付属の沈充伝と論評の部分だけとなった。もう一息だ、頑張れよ俺。で、今回も謎の人物が出てくる。 処季って誰なんだ。それと蛇足ながら、沈充に献策した顧颺という人物、王敦の乱が終息した年の冬に武康で挙兵し、朝廷側に殺されている。

<書き下し文>

 帝は中軍司馬の曹渾等をして含を越城に撃たしめ、含の軍は敗(やぶ)るれば、敦は聞き、怒りて曰く、
「我が兄は老婢なるのみ。門戸は衰えたり。兄弟の才を文武に兼ねたる者、世将・処季は皆早く死すれば、今や世事は去れり。」
と。参軍の呂宝に語りて曰く、
「我は当に力行すべし。」
と。因りて勢を作(な)して起きるも、困乏して復た伏す。


 鳳等は京師に至り、水南に屯す。帝は親(みづか)ら六軍を率いて以て鳳を禦(ふせ)ぎ、頻(しき)りに戦いて之を破る。敦は羊鍳及び子の応に謂いて曰く、
「我の亡き後、応は便ち即位し、先に朝廷百官を立て、然る後に乃ち葬事を営め。」
と。初め、敦の始めて病むや、白犬の天より下りて之を噛むを夢(ゆめ)み、又刁協の軺車に乗りて従を導き、目を瞋(いから)せて左右をして之を執(とら)えしむるを見る。俄かにして敦は死し、時年五十九なり。応は秘して喪を発せず、屍を裹(つつ)むに席を以てし、蝋を其の外に塗り、庁事の中に埋め、諸葛瑤等と恒(つね)に酒を縦(ほしいまま)にして楽を淫す。


 沈充は呉より衆万余人を率いて至り、含等と合す。充の司馬たる顧颺は充に説いて曰く、
「今や大事を挙ぐるも、天子は已に其の喉を扼し、情は離れ衆は沮(はば)み、鋒は摧(くだ)け勢は挫け、疑いを持して猶予(いざよ)えば、必ず禍敗を致さん。今若(も)し柵塘を決破し、湖水の京邑に灌ぐに因り、舟檻の勢を肆(ほしいまま)にし、水軍の用を極めれば、此れ所謂戦わずして人の兵を屈する、上策なり。初めて至るの兵を藉(か)り、東南の衆軍の力を并(あわ)せ、十道倶に進まば、衆寡は倍を過ぎ、理として必ず摧陥せん、中策なり。禍を転じて福と為し、敗に因りて成を為さば、銭鳳を召して事を計り、因りて之を斬り以て降る、下策なり。」
と。充は用いること能わず、颺は逃げて呉に帰る。含の復た衆を率いて淮を渡るも、蘇峻等は逆撃し、大いに之を敗(やぶ)る。


 既にして周光は銭鳳を斬り、呉儒は沈充を斬り、並びに京師に伝首す。有司の議して曰く、
「王敦は天に滔(はびこ)り逆を作(な)して無君の心有れば、宜しく崔杼・王淩が故事に依り、棺を剖(さ)き尸を戮し、以て元悪を彰(あきら)かにすべし。」
と。是に於いて瘞を発し尸を出し、其の衣冠を焚き、跽(ひざまず)かしめて之を刑す。敦・充が首は同日に南桁に懸かり、観る者の慶を称せざる莫し。敦が首の既に懸けられ、敢えて葬を収める者莫し。尚書令たる郗鍳の帝に言いて曰く、
「昔王莽の頭を漆せられて以て車を輗(くさび)し、董卓の腹を然(も)やされて以て市を照らし、王淩は土に儭(した)しまれ、徐馥は首を焚かれる。前朝に楊駿等を誅するや、皆先に官刑を極め、後に私殯を聴く。然れば春秋は斉襄の紀侯を葬るを許し、魏武は王修の袁譚を哭するを義とす。斯に由りて之を言えば、王誅の上に加えらるれば、私義の下に行わると。臣の以為(おも)えらく、私葬を聴き義に於いて弘(ひろ)めるを為すべし。」
と。詔して之を許し、是に於いて敦が家に葬を収めしむ。含父子は単船に乗り荊州刺史の王舒に奔るも、舒は人をして之を江に沈めしめ、余党は悉く平らぐ。


 敦は眉目の疏朗にして、性は簡脱、鍳裁有り、学は左氏に通じ、口に財利を言わず、尤も清談を好み、時人の知るもの莫きも、惟(ただ)族兄の戎のみ之を異とす。経略指麾、千里の外を粛然とせしむるも、麾下は擾(さわ)ぎて整えること能わず。武帝の嘗て時賢を召して共に伎芸の事を言うに、人々は皆説く所有るに、惟(ただ)敦のみ都(すべ)て関わる所無く、意色殊に悪し。自(みずか)ら鼓を撃つを知ると言い、因りて袖を振り枹(ばち)を揚げ、音節は諧鈞にして、神気の自(おのずか)ら得て、傍らに人無きがごとく、座を挙げて其の雄爽を歎ず。石崇は奢豪を以て物に矜(ほこ)り、廁上は常に十余の婢の侍列する有りて、皆に容色有り、甲煎の粉・沈香の汁を置き、廁に如(ゆ)く者有らば、皆新しき衣に易(か)えて出でしむ。客の多くは脱衣を羞じるも、敦は故(ふる)きを脱いで新しきを著(き)て、意色に怍(はじ)る無し。群婢は相(あい)謂いて曰く、
「此の客は必ず能く賊を作(な)さん。」
と。又嘗て色に荒恣し、体の之が為に弊し、左右の之を諫めれば、敦の曰く、
「此れ甚だ易きのみ。」
と。乃ち後閤を開き、諸(もろもろ)の婢妾の数十人を駆り、並びに之を放ち、時人は歎異す。

<現代語訳>

 明帝は中軍司馬の曹渾達に越城で王含を攻撃させた。王含の軍が破れると、王敦は知らせを聞いて怒り、
「兄は年老いた婢(のように無力)だ。我が一族は衰えてしまった。兄弟の中で文武の才能を兼ねていた世将(王廙)や処季は早死にしてしまったから、今や状況を打開する機会はなくなった。」
と言った。そして、参軍の呂宝に語り、
「私は踏ん張ってでも前線に行こう。」
と言った。それから勢いをつけて病床から起き上がったものの、ふらついて再び床に就いてしまった。


 銭鳳達は首都に至り、水南に陣を敷いた。明帝は自分で六軍を率いて銭鳳の軍を防ぎ、何度も戦って銭鳳達を破った。王敦は羊鍳と王応に向かい、
「私が死んだら、王応は(明帝や東晋の朝廷に対抗するために)すぐに皇帝として即位し、先に(新しい)朝廷を準備して大臣や官吏を任命し、その後で私の葬儀を営め。」
と言った。王敦は病に倒れた当初、白い犬が天から下ってきて自分を噛む夢を見ており、加えて、刁協が軺車に乗り従者を付き従えてやって来て、目を怒らせて側近に王敦を捕らえさせる夢も見ていた。王敦は急死した。時に五十九歳だった。王応は王敦の死を隠して喪を発さず、屍を蓆で包み、その外側を蝋で塗ると役所の中に埋め、(異変を悟られないようにわざと)諸葛瑤達と常に酒を気ままに吞んで音楽に耽った。
 沈充が呉から一万人以上の兵を率いて到来し、王含達と合流した。沈充の司馬である顧颺は沈充に対し、
「大事(反乱)を挙行してから今日に至るまでの間、天子(明帝)は既に我々の喉を扼し、人々の気持ちは離れて我が軍は意気阻喪し、矛先は砕けて勢いは失われています。迷いを抱いたまま躊躇していたら、我々は必ずや敗北するでしょう。もしも今、堤防を決壊させて湖水によって都を水攻めし、船で思うままに戦い、水軍の運用を極めるならば、(十分な船を用意できない朝廷側は不利となるため)所謂『戦わずして敵兵を屈服させる』という状況が生み出せます。上策です。新たに到着した軍の力に頼り、東南の(我が)軍と力を合わせ、十の道から同時に進撃するならば、こちらは相手の兵力の倍を超えますので、道理として必ず敵を撃破できます。中策です。禍を転じて福と為し、敗北から成功を導くのでしたら、(偽って)銭鳳を呼んで善後策を練り、(隙を衝いて)銭鳳を斬ることで(罪を謝して朝廷に)降伏します。下策です。」
と説いた。沈充はその献策を用いることができなかったので、顧颺は逃げて呉に帰った。王含が再び軍を率いて淮(秦淮河?)を渡ると、蘇峻達は迎え撃ち、大いに王含を破った。
 その後、周光が銭鳳を斬り、呉儒が沈充を斬り、両名の首は都に送られた。有司(朝廷の担当官)が、
「王敦は盛んな勢いで反逆し、君主を蔑ろにする心を持っていましたので、(主君を弑逆した)崔杼や(皇帝の廃立を企てた)王淩の故事により、掘り起こした柩を壊した上で遺体の首を刎ね、反乱の元凶であったことを明らかにするのがいいでしょう。」
と発議した。こうして墓を暴いて王敦の遺体を引きずり出し、その衣冠を焼き、跪かせた上で屍の首を斬った。王敦と沈充の首は同日に南桁で晒され、見物する者で慶祝を称さない者はいなかった。王敦の首が晒されると、それを埋葬しようとする者はいなかった。尚書令の郗鍳が明帝に向かい、
「昔、(前漢を滅ぼした)王莽は(死後に)頭を漆塗りにされて軛を留めるくさび代わりとなり、(後漢を滅ぼしかけた)董卓は(遺体の)腹を燃やされて市を照らすこととなり、(魏の少帝曹芳を廃位しようとした)王淩は(見せしめとして)棺なしで土葬され、(東晋に対して反乱した)徐馥は(死後に)首を焼かれました。前朝(西晋)では楊駿達を誅殺した際、皆先に公的な刑に処し、後で私的な葬儀を許可しました。だからこそ『春秋』では斉の襄公が(先祖の仇討ちとしてその国を滅ぼした後は)紀侯の葬儀を許し(たのを記録し)、魏の武帝(曹操)は王修が袁譚に哭礼したことを義であると認めました。これらを考慮しますと、王誅が加えられた後で個人的な義が実践されるのです。私は、私的な葬儀を許して義を広めるのがよいと考えます。」
と言った。詔によって許可を出し、王敦の家に葬儀を行わせた。王含と王応の親子は船に乗って荊州刺史の王舒の元に逃げ込んだものの、王舒は部下に命じて親子を長江に沈めさせ、反乱軍の残党はことごとく平定された。


 王敦はすっきりした顔立ちで、性格は大らかで洒脱だった。人を見極め物事の優劣を見定める力があり、学問では春秋左氏伝に通じていて、財産や儲け話など口にせず、非常に清談を好み、当時の人々でその力量を知る者はいなかったけれど、一族で年長だった王戎のみが王敦を只者ではないと評価していた。戦略や軍の指揮という面では千里の外を粛然とさせる能力があったものの、麾下が騒ぎを起こし、それを取り締まれなかった。嘗て武帝(司馬炎)が当時の賢者を召して技芸の話題になった際、人々が語る中にあって、ただ王敦のみが全く話に関わることがなく、その顔はひどく不満そうだった。自分から太鼓の叩き方は知っていると言い出し、袖を振り撥を突き上げて演奏し、その音節は調和がとれて、神気が自然に生じ、傍らに人がいないかのような雰囲気であり、その場にいた者は全員が王敦の雄壮で颯爽とした様子に感心した。石崇は豪奢な生活を誇示し、便所には常に十人以上の婢を整列させ、その全員が美女であり、(臭い消しの)甲煎の粉や沈香の汁を置き、もしも便所に行く客がいれば、皆(石崇が用意していた上等で)新しい着物に着替えさせた。客の多くは脱衣を恥ずかしがったけれど、王敦は(自分の)古い着物を脱いで(石崇が用意していた)新しい衣服を着て、恥じ入る様子もなかった。たくさんの婢は互いに、
「この客は(将来)必ず反逆を起こすに違いない。」
と言い合った。さらに、女色に溺れて健康を害したことがあった際、側近が諫めると、王敦は、
「ひどく簡単な話に過ぎない。」
と言い、奥向きの建物を開放し、数十人の婢や妾を駆り立て、全員を追い出してしまった。当時の人々は(その振舞いに)驚嘆した。

 

 

 

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