『晋書』 王敦伝そのⅩ

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遂に完結

 やっと完成に漕ぎつけた。もっと日数が必要かと予想していたけれど、年内に終えられた。嬉しいので、すぐさま本文に入ろう。最終回は、王敦伝に付属する沈充の伝と王敦の論賛だ。

<書き下し文>

 

 沈充字(あざな)は士居なり。少(わか)くして兵書を好み、頗る雄豪を以て郷里に聞かる。敦は引きて参軍と為し、充は因りて同郡の銭鳳を薦む。鳳字は世儀、敦は以て鎧曹参軍と為し、数(しばしば)進見せらる。敦に不臣の心の有るを知り、因りて邪説を進め、遂に相(あい)朋構し、専ら威権を弄し、言は禍福を成す。父が喪に遭い、外は葬に還るに託し、密かに敦が使と為り、充と構を交える。


 初め、敦が参軍の熊甫は敦の鳳を委任し、将に異図の有らんとするを見て、酒酣に因りて敦に謂いて曰く、
「国を開き家を承け、小人は用いる勿れ、佞倖の位に在らば、敗業せざること鮮(すくな)し。」
と。敦は色を作(な)して曰く、
「小人とは阿誰(たれ)ぞや。」
と。甫は懼容無く、此れに因りて帰をは日を蔽いて玉石は焚かる。往時は既に去りて長歎すべく、別れを念じて惆悵する復た会うことの難きを。」
と。敦は其の己を諷するを知るも納(い)れず。


 明帝は将に敦を伐たんとし、其の郷人の沈禎をして充を諭さしめ、以て司空と為すを許す。充は禎に謂いて曰く、
「三司は具瞻の重にして、豈に吾の任ずる所ぞ。幣厚言甘、古人の畏れる所なり。且つ丈夫の事を共にするは、終始は当に同じくすべく、寧ろ中道にて改易すべくとも、人の誰か我を容れんや。」
と。禎の曰く、
「然らず。忠と順とを舎(す)て、未だ亡びざる者は有らざるなり。大将軍の兵を阻みて朝せず、爵賞は己よりすること、五尺の童すら其の異志を知る。今の此の挙、将に簒弑を行わんとするのみにして、豈に往年と同じからんや。是を以て疆場の諸將は本朝に帰赴せざる莫く、内外の士は咸(みな)死を致さんと願い、正なれども以(すで)に国を移し主を易(か)え、義なれども北面せずして以(すで)に之に事(つか)える、奈何(いかん)ぞ逆図に協同し、不義の責に当たらんとするや。朝廷の坦誠は、禎の知る所なり。賊の党類も、猶(なお)其の罪を宥(ゆる)し、之と更に始める、況や機を見て作(な)すをや。」
と。充は納(い)れず。兵を率い発するに臨み、其の妻子に謂いて曰く、
「男子は豹尾を豎(た)てずんば、終(つい)に還らず。」
と。敗れるに及びて呉興に帰り、道を亡失し、誤りて其の故将の呉儒が家に入る。儒は充を重壁の中に誘い、因りて笑い充に謂いて曰く、
「三千戸侯なり。」
と。充の曰く、
「封侯は貪るに足らざるなり。爾(なんじ)の大義を以て我を存さば、我が宗族は必ず厚く汝に報いん。若(も)し必ず我を殺さば、汝の族は滅せん。」
と。儒は遂に之を殺す。充が子の勁は竟に呉氏を滅す。勁は忠義伝に見ゆ。


 史臣の曰く、琅邪(元帝)の初めて建鄴に鎮するや、龍徳は猶(なお)潜み、当璧膺図にして冥兆に預かり定まると雖も、豊功厚利は未だ黎氓を被(おお)わず。王敦は中朝に歴官し、威名の夙(つと)に著(あらわ)れ、淮海に牧するを作(な)し、望実は逾(いよいよ)隆(たか)く、遂に能く魚水の深期を託され、金蘭の密契を定め、王度を弼成し、中興を光佐すれば、卜世は百二の期を延べ、都を論じて三分の業を創ること、此の功は固(もと)より細(こまか)からざるなり。既にして勲の高きに負い非望を図り、勢逼を恃みて驕陵を肆(ほしいまま)にす。釁隙は刁・劉より起き、禍難は銭・沈に成る。晋陽の甲を興し、象魏の兵を纏めたり。蜂目は既に露われ、豺声も又発し、擅(ほしいまま)に国命を窃(ぬす)み、忠良を殺害し、遂に乗輿を簒盗し、亀鼎を逼遷せんと欲す。頼(さいわい)に嗣君(明帝)の英略なれば、晋の祚は霊長し、諸侯は位を釈(す)て、股肱は力を戮(あわ)せ、能を用いて茲(ここ)に廟算を運(めぐ)らし、彼(か)の凶徒を殄(た)ち、克(よ)く鴻図を固め、載(すなわ)ち天歩を清らかにす。

<現代語訳>

 沈充は字を士居といった。若い頃から兵書を好み、非常に雄々しく豪快な者として郷里では評判だった。王敦が引き立てて(自分の幕府の)参軍に任命すると、沈充は同郡の銭鳳を推薦した。銭鳳は字を世儀といい、王敦が(やはり自分の幕府の)鎧曹参軍に任命すると、しばしば重用された。王敦に不臣の心が有るのを知ると、邪な企みを説き、遂に王敦との結び付きを深め、専ら権威を笠に着て振舞い、その言葉は人の禍福を左右するまでになった。父が亡くなると、表向きは喪に服すことを口実にして郷里に戻り、密かに王敦の使者として沈充と連携を図った。


 当初、王敦の参軍だった熊甫は、王敦が銭鳳を信任して反逆に及ぼうとするのを見て、酔いに任せて王敦に、
「国を開き家を継いだ者は小人を用いるな。お気に入りの家来が高位にいたら、失敗しないのは稀なことだ。」
と言った。王敦は顔色を変え、
「小人とは誰だ。」
と言った。熊甫は恐れる様子もなく、この発言を口実に辞職を願い出た。王敦との別れに臨み、熊甫は歌って、
「疾風が激しく巻き起こって山や丘を覆い、妖しげな霧が太陽を隠して玉も石も焼かれる。昔の日々は過ぎ去ってしまったし、長々と溜め息を吐こう。別れを思って残念がる。再び会うのは難しかろうと。」
と言った。王敦はその言葉が自分への仄めかしだと理解したものの、受け容れなかった。

 明帝が王敦を討とうとして、(沈充とは)同郷である沈禎に沈充を諭させ、(朝廷に帰順すれば)司空の位を授ける旨を示した。沈充は沈禎に、
「三司(司徒・司空・太尉の総称)は人々が仰ぎ見る重要な地位であり、どうして私ごときが任命される官職だろうか。手厚い贈り物や甘い言葉による誘いかけは、昔の人間が畏れ慎んだ行為である。加えて、立派な男が誰かと行動を共にする際、最初から終わりまで一貫した振舞いに及ぶべきで、途中で態度を改める方が良いとしても、誰が(そんな卑怯な行いをする)私を受け容れるだろうか。」
と言った。沈禎は、
「そうではない。(そもそも)忠と順とを捨てて、今までに滅亡しない者はいなかった。大将軍(王敦)は兵を恃みにして参内せず、爵位や褒賞を自分の意志で決めていることなどから伝わるその野心は(背丈が)五尺の子供ですら知っている。今回の挙兵は、簒奪や弑逆を行おうとするだけの行為であって、どうして往年(一度目の挙兵)と同じだろうか。こういう訳で戦場にいた諸將で朝廷の危機に赴かない者はおらず、内外の士は誰もが決死の覚悟で働こうと願い、(そうした状況下で)正しかろうとも国政を動かして主君を挿げ替えてしまい、正義ではあっても(明帝に)北面せず(王敦に)仕え続けることにより、どうして反逆に協同し、不義の責に(自分から)当たろうとするのか。朝廷の誠実な姿勢は、私が知るところである。賊の一味でも、まだその罪を許し、それらと共に改めて統治を始めているのだから、ましてや機会に恵まれて帰順するのは尚更問題ない。」
と言った。沈充はその説得を拒んだ。兵士を率いて出発する際、沈充は妻子に向かい、
「男は大功を建てなかったなら、二度と(故郷に)帰還しないものなのだ。」
と言った。敗北するに及んで(故郷の)呉興に帰ったが道を見失い、誤ってかつての部下だった呉儒の家に入ってしまった。呉儒は二重壁の建物の中に沈充を誘い込むと、沈充に対して笑って、
「三千戸侯(の賞金首)だ。」
と言った。沈充は、
「(私の首に掛かった)封侯など貪るに足らない。お前が大義によって私を生かすならば、我が宗族は必ずお前に厚く報いるだろう。もしもきっと私を殺すというのならば、お前の一族は滅亡するだろう。」
と言った。結局、呉儒は沈充を殺した。沈充の子である沈勁は、後に呉氏を皆殺しにした。沈勁の事績は(晋書)忠義伝に見える。

 史臣は評価する。
「琅邪王(元帝)が初めて建鄴に鎮した時、龍徳はまだ潜んでいて、(元帝が)皇帝になって国を興すという天から授けられた幸運は予め定まっていたけれど、それによる厚い恩恵はまだ人々にもたらされていなかった。王敦は中朝(西晋)で官職を歴任し、その名声は早くから著しく、淮海(青州や揚州)で統治を行い、名声と実績は一致していて(元帝が江南を治める頃には)ますます高くなっており、最後には元帝から水魚の交わりとも評すべき深い信頼を託され、その元帝と金蘭の交わりに比すべき親密な間柄になり、君主を輔弼し、中興を支えたので、東晋の行く末を占えば百二年の長さとなり、都を論じて(西晋の都である洛陽と長安、東晋の都である建康が連綿と続くという)三分の業を創出したことなど、その功績は元来小さなものでなかった。(しかし)時が経つにつれて勲功の高さを恃みに野望を抱き、皇帝に匹敵する権力を背景にして好き勝手に驕り高ぶった。(元帝との仲に生じた)隙間は刁協や劉隗が原因であり、(東晋にとっての)禍難は銭鳳や沈充によって成り立った。(晋が滅んで趙・魏・韓が成立し、戦国時代の到来の原因になった)晋陽の戦い(に類する内戦)を起こし、近衛軍の兵を纏めた。(攻撃的な)蜂目は露わになって、それに加えて(人を害する)豺声も発し、勝手気ままに国の権力を盗み、忠良の人士を殺害し、遂には皇帝の位を簒奪しようとした。(しかしながら)嗣君(明帝)が英邁だったおかげで晋の国運は末永く保たれ、諸侯は位を捨てて(朝廷に忠誠を捧げ)、股肱の臣は力を合わせ、(朝廷は)能力の有る者を用いて勝利の計画を立て、凶悪な王敦の一味を滅ぼし、東晋の版図を固めた。そうして天運は清らかになった。」
と。

 

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