安吾と文化

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※2020年12月の記事再録

坂口安吾に学ぶ文化論

 昨日は朝に雨が降り、昼には日差しが雲間から見え、夜中に雪が降り積もった。目まぐるしく変化する天候は、あたかも我が人生のごとし。明日のことを思い悩んでもしょうがない。酒を飲むに如かずだ。

 酒といえば、坂口安吾だろう。中学生の時分に『堕落論』はじめ、いくつかの作品を読んで以来、そのイメージは一度たりとも揺らいでいない。個人的な意見を述べるなら、先日触れた開高健と並んで、酒にちなんだ小説家の横綱だ。

 

 

 小説はもちろん面白いんだけれど、評論やエッセイに印象深い言葉が飛び出してくるように感じる。こんな風に書いてみたい、ではなく、これは面白い書き方だと感心させられる発想や言葉遣い、文体と表現すればいいだろうか。とにかくに、その表現がすんなりと頭の中に入りこむ。で、安吾のエッセイ、確か『日本文化私観』か何かに、古い神社仏閣を壊して駐車場にしても日本文化は滅びない、という旨の記述があったように記憶している。これまで数多くの論評があったから、今さら坂口安吾論を書く気はない。ただ、安吾が言いたかったであろう、

「文化に高級も低級もない。ことさら意図せずとも、人の生きた証の全てが、文化と呼ばれるものになる」

という思想には賛成だ。これに触発され、文化に対して一言述べておきたい。人の営みの中で、有形無形、土の中文字の中を問わず、残ったからこそ文化と呼ばれるものになるのだ、と。

 将来、令和生まれのある人が、バブル経済に沸く日本を舞台にした文学作品を書くとしよう。困るはずだ。記録に残されていないマンション建築現場の空気や、人でごった返した百貨店の売り場の熱気を描写することに。想像力で補うにせよ、欠けた部分が多くなるはず。何より、当時の「当たり前」が分からない。令和の「当たり前」で語る過去に、どれほどの説得力があるだろう。しかし、映像なり音声なり、何かが残されていれば、想像力はものすごい勢いで膨張し、欠けたる部分を(正しいか否かは別として)埋め、その人の中でバブル経済に沸く日本は再現される。文化が人間の活動の痕跡を指す言葉だとしたら、現在まで残ったものには何でも「文化」という言葉を当てはめて差し支えないかもしれない。古きを残すに意義あらば、そはまだ見ぬ人の胸先三寸。だからこそ、残さねばならない。

「ぴえん」
「草w」
「りょ」

とは何だったかと。平成・令和時代の文化を伝える言葉として、遠い未来の大学受験に出るかもしれないからさ。

 追記。大学受験の国語に、時折目を疑う単語が見受けられる。注釈付きの「やおい(※センター試験)」だとか、かつてスポーツ新聞にも載った「アイドントライクノウミサン(※近畿大学)」だとかを発見した時は、もう駄目だと思った。

 

 

 

 

 

 

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