強かった男 沈勁伝

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 ここ最近、当ブログは「ちくわカレー 貧乏」というワードで検索ヒットするらしい。何故に? 貧乏飯について書いたものはあるし、その中で竹輪を使った料理に言及してはいるけれど、ちくわカレーを作った話なんぞ一言も述べていないのだが。

 

 

 ともあれ、本日は『晋書』から書き下し文と現代語訳を一つ、載せておく。沈勁という人物についてだ。このブログで以前に取り扱った「王敦伝」に付随する「沈充伝」に出てくる沈充の子で、なんと「忠義伝」に立伝されている。父親が国家反逆者で子が国に忠義を尽くした人物という、興味深い組み合わせ。ついでに言うと、勁という漢字には「強い」という意味もある。それでは早速、始めよう。

<書き下し文>

 沈勁字(あざな)は世堅、呉興武康の人なり。父の充は、王敦と逆を構え、衆敗れて逃げ、部曲將たる呉儒の殺す所と為る。勁は当に誅に座すべきも、郷人(きょうじん)銭舉の之を匿えば免るるを得たり。其の後竟(つい)に讎人(しゅうじん)を殺す。


 勁は小(わか)くして節操有り、父の非義に死するを哀しみ、志は勲を立てて以て先の恥を雪(すす)がんと欲す。年は三十余なるも、刑家たるを以て仕進を得ず。郡將の王胡之は深く之を異とし、平北将軍・司州刺史に遷り将に洛陽に鎮せんとするに及び、上疏して曰く、

「臣は山陵を藩衛し、戎狄を式遏するに当たり、群心を義督すると雖も、人の思いは百よりし、然して方(まさ)に荊棘を翦(き)り、国恩を奉宣せんとすれど、艱難急病、才に非ざれば済(すく)わず。呉興の男子なる沈勁は、清操の郷邦に著(あらわ)れ、貞固にして以て幹事たるに足る。且つ臣の今(いま)西せんとするに、文武の義故、呉興の人の最も多く、若(も)し勁をして臣の府事に参ぜしめたらば、見人は既に悦び、義附も亦衆(おお)からん。勁の父なりし充は昔(むかし)先朝に罪を得ると雖も、然して其の門戸は累(かさ)ねて曠蕩を蒙(こうむ)れば、特に沛然を垂(た)るることを得べきかは審(つまび)らかにせずも、臣の上する所を許すや否や。」

と。詔して之を聴く。勁は既に命に応じるも、胡之は疾病を以て職を解かる。


 升平中、慕容恪は山陵に侵逼す。時に冠軍将軍の陳祐は洛陽を守れど、衆は二千を過ぎず、勁の自(みずか)ら表して祐に配されて力を効(いた)すことを求むれば、因りて勁を以て冠軍長史に補し、自ら壮士を募らしめれば、千余人を得て、以て祐を助け賊を撃ち、頻りに寡を以て衆を制す。糧の尽き援の絶たるれば、祐は保全する能わざるを懼る。会(たまたま)賊の許昌を寇すれば、祐は因りて許昌を救うを以て名と為し、興寧三年、勁を留め五百人を以て城を守らしめ、祐は衆を率いて東(ひがし)す。会(たまたま)許昌の已に没すれば、祐は因りて崖塢に奔る。勁が志は命を致すを欲すれば、死所を獲(う)るを欣(よろこ)ぶ。尋(つ)いで恪の攻める所と為り、城の陥(お)ち、執(とら)えられども、神気は自若たり。恪は奇として将に之を宥さんとするも、其の中軍将軍たる慕容虔の曰く、

「勁は奇士なりと雖も、其の志度を観るに、終に人の用と為らず。今若(も)し之を赦さば、必ず後の患(うれ)いと為らん。」

と。遂に害に遇う。恪の還り、従容として慕容暐に言いて曰く、

「前(さき)に広固を平らげ、辟閭を済(すく)うこと能わず、今洛陽を定めて沈勁を殺す、実に四海に愧ずるところ有り。」

と。朝廷は聞きて之を嘉し、東陽太守を贈る。子の赤黔は大長秋と為る。赤黔の子の叔任は、義煕中に益州刺史と為る。

<現代語訳>

 沈勁は字(あざな)を世堅と言い、呉興郡武康県の人である。父の沈充は、王敦と共に朝廷に反逆し、率いる軍が敗れて逃げ、部曲將だった呉儒に殺された。沈勁は父の罪に連座して処刑されるはずだったものの、郷里の人である銭舉が匿ってくれたおかげで死を免れた。其の後、遂に父の仇を殺した。


 沈勁は若い頃から節操が有り、父が非義に死んだのを哀しみ、勲功を立てることで父の恥を雪(すす)ごうと望んだ。年齢が三十余歳になっても、刑罰を受けた家の者であるという理由で朝廷に仕えられなかった。郡の將軍だった王胡之は沈勁を高く評価し、平北将軍・司州刺史に転任して将に洛陽に駐留しようとするに及んで、朝廷に上疏して、

「私は皇帝の陵墓を守り、異民族を防ぐに当たり、群心を義によって監督しておりますけれど、人の思いは様々でして、それに加えて荊棘を切るように困難を排し、国からの恩を奉じて人々に宣告しようとするのですけれど、天下が艱難急病の折、才能のある者でなければ国は救えません。呉興郡の男子である沈勁は、清操さでは郷里で著名でして、貞固な人柄は大事業の中心となるのに十分です。加えて私が今から西へ向かおうとする上で、配下の文官や武官には呉興の人が最も多く、もし沈勁に私の幕僚を務めさせるなら、(呉興郡の豪族である沈勁が登用されることで)見る人はきっと悦び、義によって従軍する(呉興郡の)者も多いでしょう。沈勁の父だった沈充は昔、先帝に対して罪を犯しましたけれど、一方で沈勁の一門は重ねて朝廷から寛大な取り計らいを受けておりますので、朝廷が特別に心広い処置を沈勁に垂れることが可能かどうかはここで明言しませんが、私の上奏を許可してくださいますでしょうか否でしょうか。」

と言った。朝廷は詔を下して王胡之の意見を採用した。沈勁は朝廷の命令に応じたものの、王胡之は疾病を理由に職を解かれた。(つまり、沈勁が朝廷に仕える機会が失われた。)

 升平年間に、慕容恪は(洛陽にある晋の)皇帝の陵墓近くに侵攻してきた。時に冠軍将軍の陳祐は洛陽を守っていたものの、配下の兵は二千を過ぎず、沈勁が自分から上表し、陳祐の配下に任命されて力を尽くすことを求めたので、朝廷はそこで沈勁を冠軍長史に補任し、沈勁自身に壮士を募らせたところ、沈勁は千余人を得て、それで陳祐を助けて賊を撃ち、頻繁に寡兵で敵の大軍を翻弄した。食糧が尽きて救援の望みが絶たれたので、陳祐は洛陽を保全できないことを心配した。たまたま賊(慕容恪らの属する前燕)が許昌に来寇したので、陳祐は許昌を救うという名目で、興寧三年、沈勁を留め五百人を以て洛陽を守らせ、自身は軍を率いて東に向かった。折しも許昌が陥落したため、陳祐は崖塢に逃げ込んだ。沈勁の志はこの戦いに命を懸けようというものだったので、死に所を得たのを喜んだ。それから慕容恪に攻められ、洛陽は陥落し、捕らえられたけれども、沈勁は泰然自若としていた。慕容恪は珍しいと感じて沈勁を赦免しようとしたものの、中軍将軍である慕容虔は、

「沈勁は奇士であるけれど、その志度を観察すると、結局は我々のために働かないでしょう。今もし赦したならば、必ず後の憂いとなるでしょう。」

と言った。遂に沈勁は殺された。慕容恪は帰還し、従容として(主君の)慕容暐に、

「以前に広固を平らげて、辟閭の命を救えず、今洛陽を定めて沈勁を殺したのは、実に四海に愧ずるところが有ります。」

と言った。朝廷はこれを聞いて沈勁を褒め称え、東陽太守の位を贈った。沈勁の子の沈赤黔は(後に)大長秋となった。沈赤黔の子の沈叔任は、義煕年間に益州刺史となった。

 

 

 

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