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懐かしいね「少女革命ウテナ」

 昨年の11月ごろだった。友人に、TV版ガンダムの新作は「少女革命ウテナ」していると言われた。で、不意に思い出したんだよ。そういや劇場版のウテナを見た若き日に、薔薇の刻印、購入したのを。メルカリに出品して売っちゃおうかな。サイズ12号で箱有りの美品です。

 ともあれ、久方ぶりにウテナのことを思い出したんで、少しばっかりウテナ論でも書こう。ただし、正面切ったウテナ論じゃない。演出に焦点を当てた「少女革命ウテナ」論(TV版)だ。

ハリボテと仄(ほの)めかし

 オッサンなんで、ハリボテという言葉を口にすると幼い頃に見た「オネアミスの翼」の記憶が甦ってきて、森本レオと一緒に、

「ハ~リボテ、ハリボテ~♪」

と口づさんでしまう。だが、今日はウテナだ。本題に戻ろう。

 ウテナの演出はとにかく仰々しい。加えて、奇妙奇天烈だ。まず、学園内の建物が訳もなくデカい。敷地が広いとはいえ、どの建物も大きすぎる。壁がステンドグラスで構成されている代物なんぞ、明らかにキリスト教の大聖堂を意識したサイズだ。決闘広場が最上階にある塔も、何メートルあるんだよってくらい高い。スゴイタカイビルすら真っ青だ。それから決闘のシーン。車が床から生えてくるわ、いつの間にか並べられた机が決闘の最中に勝手に動き回るわで、常軌を逸している。極めつけは、空から逆さに垂れ下がっている城だろう。どこに基礎部分があるんだ? いくら虚構(アニメ)の世界といえど、物事には限度がある。地球によく似た別宇宙の物語なのだろうか。ともかく、ごく普通にとらえると、そうツッコまずにはいられない演出が目白押しなのが「少女革命ウテナ」だ。デュエリスト(決闘者)たちも少しは反応しろよ。なんでシレっと決闘してるんだよ。

 監督の嗜好だから、という可能性もなくはないけれど、一先ずそれは脇に置いて、上記の演出について考察していこう。作品の舞台となる鳳学園は、おとぎ話が具現化した場所である。アニメ(虚構)の中にあってさえ、フィクション(虚構)だと仄めかされた空間だと評して差し支えない。何故そう言えるのか。それは、作中の人物にとってさえ有り得ない物理法則が随所に働いているからだ。一例を挙げよう。最後の決闘において、主人公の天上ウテナは「薔薇の花嫁」である姫宮アンシーに背後から剣で刺し貫かれる。その際、天上ウテナは一滴の血すら流すことなく倒れ伏した。確かに、ウテナの物語(フィクション)の中では人体に血など流れていない、という解釈は成り立つかもしれない。しかし、その仮定を受け容れると、今度は第1話で平手打ちされたアンシーの頬が赤くなることとの間に矛盾が生じる。逆に、ウテナ(フィクション)の中にある鳳学園がそのまたフィクションであれば、血を流さずに天上ウテナが剣に刺し貫かれて倒れたとしても矛盾はない。そもそも、ウテナは各話の導入において、終始おとぎ話を現実(アニメ)のものにしようとする少女(天上ウテナ)の物語であることが(この作品においては珍しく)明示されたアニメだ。

 こうしてみると、(フィクションの中の)フィクションである鳳学園は、フィクションであるからこそ、見た目だけでも現実を超えた場になっている必要がある。それゆえ、建物はやたらと大きく、決闘広場の床からは車が生え、城は天から垂れ下がっていなくてはならないのだ。まさに、奇想天外超現実。しかし、それは裏付けを持たないまやかしであり、ハリボテに過ぎない。いわば、演劇の舞台にこしらえられた大道具だ。だから、どれ程苦しくとも(アニメの中における)現実を生きていこうという覚悟を持った少女(天上ウテナ)によって、脆くも突き崩されかけたのだ。ウテナが演劇を念頭に置いて作られた作品だというのは、これまでに幾度となく指摘されている。ウテナにおける超現実的な演出には、必然性があるという訳だ。

 さて、ウテナの演出を語る上で、もう一つ欠かせない要素がある。それは全編を通じて何度も視聴者に提示される仄めかしだ。最近の言い方に従えば、匂わせ、というやつ。登場人物のセリフしかり、シンボリックな小道具しかり。そして、何といっても影絵少女。ウテナの人気は、視聴者の想像力を刺激するこうした仄めかしに負うところ大であると、個人的には感じている。甲という事象と乙という事象を繋ぎ合わせると、丙という意味が浮かび上がってくるといった具合だ。

 しかし、ウテナは演劇に立脚した物語であると考えた時、製作者が別の意味で仄めかしているものが、うっすらと見えてくる。シェイクスピアの『お気に召すまま』を引き合いに出すまでもなく、演劇とはas you like な芸術だ。解釈なんて、見た者の数だけ存在する。視聴していると、製作者側が、

「私たちはAという意図でこの場面を提示します。けれど、あなたがBと解釈するのもお気に召すまま、Cと読み解くのもお気に召すままです」

という姿勢でウテナを世に送り出したのが伝わってくるのだ。もちろん、多様な解釈を許す芸術作品は星の数ほどある。何も、ウテナに限った話ではない。特定の解釈しか許さないものの方が稀だろう。ただ、その幅、あるいは深さという観点で、ウテナは別格なのだ。ここでも一例を挙げよう。各話の重要局面を前にすると必ず現れる影絵少女は、ナレーションの役割を担っている。普通、ナレーションというのは物語の受け手(視聴者や読者)の理解を助けるために情報を発する存在だ。いま何が起きているのか、ここはどんな場面でその背景には何があるのか、物語の受け手が「分かる」ように種々の言葉を述べる。物語という海の水先案内人だ。ところが、影絵少女の口から発せられる言葉は、難渋韜晦にして紆余曲折、物語の理解を更に混乱させるものばかり。決闘に臨む者を戯画化した言い回しだと推測できる場合もあるけれど、どうとでも受け取れる謎めいた台詞が際立って多い。つまり、初めから多様な解釈が成り立つように仕組まれているのだ。ゆえに、ウテナの視聴者は通常の作品よりも多くのメタファーを影絵幼女の言葉の中に見出し、仄めかされた事物を解き明かそうとし、無数の解釈が生まれる。これを多様な解釈の幅、あるいは深さが段違いだと言わずして何と言おうか。

 筆が滑ったので、ついでに大脱線して書いておこう。影絵少女のシーンは、意味深長に見えて実はナンセンスな虚仮おどし、道化の戯れ言と断ずることすらできる。いかにも重要そうな耳当たりをした言葉のハリボテ何一つ真実を語っていないと解釈するのもまた可、とさえ言える。そういう受け止め方すら許容するほどの凄みが、ウテナにはある。

結び

 知らない、あるいは知り得ないものごと、分からないものごとに、人は好奇心を刺激されるのではないか。「少女革命ウテナ」が視聴者にとってそうした存在になるためにも、あの謎めいて奇妙奇天烈シュールレアリズムな一連の演出は不可欠だった。決闘ソングも含めて。ウテナをウテナたらしめたのは、主題でもなく、キャラでもなく、当時としては革命的なあの演出だったのだ。多くの人に見てほしい。こちらとしては、その時に、

「かしらかしら、ご存知かしら」

と高らかに、影絵になって唱えるつもり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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