児童文学 ~あのころはフリードリヒがいた ~

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※2020年6月の記事再録 2021年3月加筆

引き裂かれた友情

 先週の水曜日に、ようやく給付金の申請一式が届いた。まだ天に見放されてはいないらしい。振込完了したならば、ひとまず何かに使うとし、本日のお題に入ろう。

 中学生のころ、学校の図書館で借りた本の話だ。あんまりにも強い印象を受けたせいで、大人になっても忘れられず購入した。題名は見出しにあるとおり、『あのころはフリードリヒがいた』だ。

 この物語は、1925年から1942年にかけてのドイツを舞台にしている。政治や歴史についての個人的な認識を公言するのは、ひとまず差し控えよう。ドイツ人少年とユダヤ人少年の友情が時代の流れによって引き裂かれ、死によって終わる物語だ。少年たちが離れ離れになっていく様が、ただただ悲しい。加えて、主人公であるドイツ人の少年が〈水晶の夜〉でどんな状態に陥ったか、ユダヤ人の少年フリードリヒに対してドイツ人の少女であるヘルガが示した心遣いはどれほどの勇気が必要な行為だったか、初めて読んだ時に、ひどく強い印象が残った。この間ブログで触れた開高健についてと同様、若者に読んで欲しいと思う、個人的に忘れがたい一品だ。

以下、加筆分
 この話はフィクションなので、当然のごとく額面通りに受け止める訳にいかない点が多々あるだろう。それでも、主人公一家がフリードリヒやその家族に対して人間らしく接する様子だとか、学校の先生のユダヤ人観だとかは、ヒューマニズムにあふれていて読む者にある種の救いを感じさせる。人間の温かい心や善意は、暗い時代であっても存在するのだと。また一方で、主人公一家のようにユダヤ人へ同情的な人たちでさえ、表面的ではあれど、生きていくための手段としてナチスを支持せずにいられなかったという世相が、こちらに重い問いを突き付けてくる。で、色々と考える訳だ。本音と建前というのは、何も当時のドイツ、あるいは現代の日本社会だけの話じゃなく、人の世には常にある課題なんだと。

 社会と個人の乖離とでも言えばいいのか、自分の望みや思いと社会の進む方向が一致しないことは、ままある。ここで使う社会ってのは、大は国際社会や国家、小は学校や職場、ご近所付き合いまで含めた人間集団のことね。独り身や、可能性にあふれた若者ならば大胆な行動に出られるかもしれないが、大半の人間は様々なしがらみを抱えているから、疎外され、追いやられないために建前を使う他なくなる。建前を口にすればするほど、社会と自己との違いが際立っていく。そして、自分との一体感が失われた社会で生きざるを得なくなる。そうなると、ストレス半端ない状態に陥ってしまう。ましてや、この物語の頃のように人々の死を黙殺する建前に生きるとなれば、認知的不協和の極限だ。本音と建前の板挟みにならない方法って、何かあるのだろうか。大学時代に少しばかり触れた社会心理学、もう一度学び直したくなってきた。
 

 

 

 

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